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『FFXI』冒険者スペシャルインタビュー
永野護 <前編>

2024年12月28日に放送されたWeb番組『ファイナルファンタジーXI A.M.A.N.とLIVE!(アマンとライブ!)』にゲスト出演いただいたデザイナーの永野護さん。番組出演に際し、インタビュー取材も実施させていただいたので、その模様をお届けする。

かねてからビデオゲーム好きとして知られる永野さんは、いつ、どのような形で『FFXI』に出会い、どのような冒険をヴァナ・ディールでくり広げてきたのか。まずこの前編では、ビデオゲーム全般との出会い、そしてMO(複数プレイヤー参加型オンライン)RPG、MMO(多人数同時参加型オンライン)RPG、『FFXI』との出会いについてお話をうかがった。



永野護

1960年生まれ。京都・舞鶴出身。デザイナー。1983年に日本サンライズ(現バンダイナムコフィルムワークス)に入社。翌年TVアニメ『重戦機エルガイム』でキャラクターとメカデザインに抜擢され、注目を集める。ほかにもテレビアニメ『機動戦士Zガンダム』などに参加。1986年より角川書店(現KADOKAWA)発行のアニメ誌『月刊ニュータイプ』にて、漫画『ファイブスター物語』の連載をスタート。2012年には、自身で監督や脚本を手がけた、劇場アニメーション『花の詩女 ゴティックメード』を公開する。デザイナーとして、オリジナリティ溢れる唯一無二のデザイン(ロボット、キャラクター)を発表し続けており、いまなお多くのファンを魅了している。

  • 『ファイブスター物語』の最新刊(2025年3月時点)である第18巻はKADOKAWAより発売中。

「テレビは不要」という生活が一変した『ドラゴンクエスト』の衝撃

  • まず、永野先生のビデオゲーム遍歴をお教えください。

  • 永野

    ビデオゲームは黎明期から遊んでいます。喫茶店のテーブルテニス系のアーケードゲームからはじまって、ブロック崩し系のゲームも遊びましたし、ワイヤーフレームで描かれているアタリの『スター・ウォーズ』(※1)にはめちゃくちゃハマりました。ほかにも、セガの『アフターバーナー』(※2)などを遊んでいましたね。

    ※1……1983年にアタリが発売したアーケードゲーム。ベクタースキャンで描かれたワイヤーフレームの画面が特徴。※2……1987年にセガが発売した3Dシューティングゲーム。同年にバージョンアップ版である『アフターバーナーII』も発売。
  • 家庭用ゲーム機が出る前のアーケード時代から遊んでおられたのですね。

  • 永野

    逆に、家庭用ゲーム機が世に出始めたときは、ぜんぜんその存在を知らなかったんです。そして『機動戦士Zガンダム』(※1)を作っていたころのある日、山浦さん(※2)と富野さん(※3)が、オフィスで「つぎの時代はこれなんだよ!」とか言いながらテレビの前で何かをしているんです。「何してるんだろう?」と思いながら見ていると、山浦さんが「これからはこういうものが家でもできるようになるから、サンライズもこういうものを目指していかなきゃいけないんだよ。わかるか? トミちゃん!」みたいなことを言っているんですよ。

    ※1……1985~1986年にテレビ放送された、『機動戦士ガンダム』の続編となるアニメーション作品。
    ※2……山浦栄二氏。日本サンライズの創立メンバーであり、テレビアニメ『機動戦士ガンダム』などのプロデュースを手掛ける。
    ※3……富野由悠季氏。アニメーション監督として、『機動戦士ガンダム』や『伝説巨神イデオン』など多数の作品を手掛ける。
  • 『機動戦士Zガンダム』の放送時期を考えると、“こういうもの”とはやはりファミコン(ファミリーコンピュータ)ですか?

  • 永野

    はい。そこで動いていたのがファミコンの『ドンキーコング』(※1)で、そういったものがあることを初めて知りました。そのころは仕事が忙しくてビデオゲームもあまり遊べておらず、のちに女房になる彼女の家に『ギャラクシアン』と『ムーンクレスタ』(※2)の筐体が置いてあったので、そこでちょっと遊んでいたくらいでしょうか。

    ※1……1983年にファミリーコンピュータと同時発売された任天堂のアクションゲーム。1981年稼働のアーケードゲームがベースとなっている。
    ※2……『ギャラクシアン』は1979年にナムコ(当時)から発売されたシューティングゲーム。『ムーンクレスタ』は1980年に日本物産から発売されたシューティングゲーム。
  • 家の中にアーケードゲームの筐体があったのですか!?

  • 永野

    喫茶店を営む親戚から、使わなくなった筐体をもらったんだそうです。それを遊んでいたほかは、『ゼビウス』(※)にちょっとびっくりしたくらいですね。それ以降は、ゲームに関してはちょっと間が開くことになります。

    ※1979年にナムコ(当時)から発売されたシューティングゲーム。そのグラフィックや世界設定は、のちのゲームに大きな影響を与えた。
  • つぎにゲームと触れたのはいつでしたか?

  • 永野

    『機動戦士Zガンダム』が終わった後くらいだと思いますが、日本サンライズの企画室……つまり若い人たちが詰めているスタジオみたいなところがありまして、夜中にそこでファミコンを遊んでいる人たちがいたんですよ。僕が「何してるの?」と聞くと、「遊んでみますか?」と言われて遊ばせてもらったのが、『ドラゴンクエスト』でした。そして気が付くと、レベル4くらいで“まほうつかい”にやられるまでプレイしていて。それがおもしろかったから「僕も遊びたい」と思ったのですが、最初の問題として家にテレビがなかったんです。

  • え?

  • 永野

    「テレビなんて必要ない」と思っていたので、ずっとテレビがない生活をしていたんですよ。ですから、自分が関わった『銀河漂流バイファム』(※1)も『重戦機エルガイム』(※2)も『機動戦士Zガンダム』も、テレビで放送されたものを観たことがありませんでした。スタジオで初号(※3)は観ているので、実際の放送までは観なくていいかなと。ひどい話ですよね(笑)。

    ※1……1983~1984年にテレビ放送されたアニメーション作品。永野氏はパペットファイターなど一部のメカデザインを担当。
    ※2……1984~1985年にテレビ放送されたアニメーション作品。永野氏がキャラクターデザインとメカデザインの両方を担当している。
    ※3……アニメ制作において、関係者が最初に試写として観るもの。
  • (笑)。

  • 永野

    そこで、まずは『ドラゴンクエスト』をプレイした翌日に電話をかけまくりました。そして自分の全情報網を駆使していろいろな人に連絡した結果、「家で使っていないテレビがあるから2万円で売ってあげる」とか、「ツインファミコンに買い替えるから、ファミコンをあげるよ」とか「あの店で『ドラゴンクエスト』を見つけたよ」のような感じで情報と必要なアイテムが集まっていきました。とんでもない勢いでしたね。結果的に3日後には全部揃い、そこで初めて自分のアトリエにテレビが備わりました(笑)。

  • すごい行動力ですね。

  • 永野

    まさに「こんなにすさまじいものがあったんだ!」と、ファミコンにドハマりした形ですね。

  • いまでこそ、誰でも趣味としてゲームを遊ぶ時代になったと思いますが、ゲーム黎明期の当時からゲームに触れていたということで、もともとコンピューターエンターテインメントに興味があったということでしょうか?

  • 永野

    というより、いまの人にはちょっと伝わりにくいかもしれませんが、じつは当時は当時で、誰もがゲームを遊んでいた時代だったんです。ゲームセンターのような場所ではなく喫茶店にゲームが置いてあるのでサラリーマンも遊んでいましたし、子どもたちも駄菓子屋さんやおもちゃ屋さんの前に置いてあるゲームで遊んでいました。ビデオゲームは街中のいたるところにあって、テレビを観たり、音楽を聴いたりするのと同じで、誰もが遊んでいたように思います。ですから“ゲームセンターに入り浸る”と言ったような特別な気持ちはなかったんです。

  • なるほど。日常の中にゲームがあったと。

  • 永野

    その後のゲームセンター文化と言われるものは、僕が考える限り『ストリートファイターII』からかな。あとは、『バーチャファイター』とか。それらのタイトルが出るまで、ゲームセンターというのは特別視されていなかったように思います。

ゲームを買いにディズニーランドへ

  • 『FFXI』以前にプレイされたゲームの中でもっとも印象に残ったものは何ですか?

  • 永野

    やっぱり『ドラゴンクエスト』かな? ちなみに『ドラゴンクエスト』の『I』と『II』、『FF』の1作目などは京都でふつうに買ったのですが、『FFIII』はちょっとずるい買いかたをしているんですよ。『ドラゴンクエストIII』がすごい人気でなかなか買えないとニュースになっていましたが、『FF』も『III』のころにはブームになっていて、『ドラゴンクエスト』と同様になかなか買えなかったんです。でも、僕は発売日にさほど苦労せずに買えました。それをどこで買ったかというと……東京ディズニーランドなんですよ。

  • ディズニーランドですか?

  • 永野

    その当時、東京ディズニーランドとは仕事でお付き合いがあって、年間パスポートを持っていました。それで、パーク内におもちゃ屋があることを知っていたので、ダメもとで行ってみたんです。そのころはそれほど混雑するような場所ではなかったので、年間パスポートでひょいと入って、おもちゃ屋に向かいました。そうしたら、ふつうに売られていて「『FFIII』ください!」と。購入後、ディズニーランドでは何もせずに帰宅するという。

  • ゲームを買うためだけにディズニーランドに行く人って、なかなかいないでしょうね(笑)。

  • 永野

    大人の力技です(笑)。

永野さんを虜にしたオンラインゲームの数々

  • 初めて遊んだオンラインゲームはなんですか?

  • 永野

    『ディアブロII』(※)ですね。自分はMac使いなのですが『ディアブロ』はMacにも対応していたということで1作目から遊んでいて、『II』も買いました。そして「『ディアブロII』で遊んでいるよ」ということをインターネットで伝えると、いろいろな人が集まってきて、みんなで延々と遊んでいましたね。

    ※『Diablo(ディアブロ)』は、アメリカのゲーム会社Blizzard Entertainmentから1996年に発売されたハックアンドスラッシュタイプのアクションRPG。MORPGの先駆け的なタイトル。続編である『ディアブロII』は2000年発売。
  • 当時はさまざまなオンラインゲームが生まれた黎明期ですね。

  • 永野

    その後は、ある日アニメスタジオかどこかに遊びにいったときに、スタッフのひとりがゲームで遊んでいたのですが、後ろで見ていると「ラ・フォイエ」という声が聞こえたんですよ。「え? 『ファンタシースター』(※1)?」と聞くと、「はい、『ファンタシースターオンライン(PSO)』(※2)です。いまベータテスト中なんですよ」と。それで、詳しくは覚えていないのですが、その後なんとかしてベータ版を入手することができました。

    ※1……1987年にセガ・マークIIIで発売されたSFファンタジーRPG。シリーズとして多数の作品が発売され、その世界観はのちの『ファンタシースターオンライン』にも引き継がれている。
    ※2……2000年にセガから発売されたドリームキャスト用アクションRPG。家庭用ゲーム機初の3DオンラインRPGとして、世界中の人々とのオンラインプレイを実現させた。『PSO Ver2』や『PSO2』には永野氏デザインのオリジナルアイテムも実装されている。
  • あいかわらず、行動力がすごいですね(笑)。

  • 永野

    それから『PSO』のベータ版を遊びはじめるのですが、偶然『ファイブスター物語(FSS)』のキャラクターの名前を付けている人に会ったんです。そこで「『FSS』好きなの?」と聞いてみると、「好きなんですよ」と返してくれました。それで、その人としばらく遊んだ後に「せっかくだから、正式サービスがスタートしたら集まろうよ。ちなみに、俺、作者本人だよ」と伝えました。

  • その方はだいぶ驚いたのでは(笑)。

  • 永野

    そこから「じゃあ、仲間を集めるだけ集めてみんなで遊ぼう」という話をして正式サービスを迎えたのですが、最終的に500人以上集まったのかな? とんでもない人数が集合した結果、ひどい混雑を起こしてしまい、ほかのプレイヤーたちからめちゃくちゃ怒られました……。

  • 500人はなかなか集められる数ではないですね。

  • 永野

    そうした経験を経て、つぎは新たにWindowsパソコンを組んで『Ultima Online(ウルティマオンライン)』(UO。※)をはじめることにしました。『UO』については、以前からそのすばらしさやバカバカしさ、それでいてとんでもないゲームだということはよくよく聞かされていたので、興味はあったんです。でも、遊んでみたくてもWindowsパソコンを持っていなかったんですよ。

    ※『Ultima Online(ウルティマオンライン)』は、1997年にサービスが開始された、MMORPGの草分け的なタイトル。
  • そこで一念発起してパソコンを購入されたと。

  • 永野

    『UO』ではBajaというシャード(サーバー)でPK(※1)にまみれながら暮らし、Mugenという上級者用の日本シャードができた後はそっちでも遊んでいました。そんな感じで、オンラインゲームは『PSO』と『UO』のふたつで遊んでいたのですが、そのころに『FFXI』がスタートしたという話も伝え聞いていました。「トレイン(※2)が起きて街に逃げ込むと、入り口付近のプレイヤーが蹂躙されて阿鼻叫喚だよ」みたいな噂も聞いていて、「楽しそうだな」と思っていました(笑)。

    ※1……プレイヤーキラー (Player Killer)の略。オンラインゲームにおいて、ほかのプレイヤーに対して攻撃を行うプレイヤーを指す。
    ※2……多数の敵を引き連れた状態のこと。まるで電車のように敵が連なっているさまから。
  • 永野先生のまわりには自然とゲームの情報が集まってきそうですね。

  • 永野

    そうですね。『PSO』で遊んでいたころは、本当にたくさんの人が僕のところにきました。ゲーム開発者の方たちからもメッセージをもらったりして。

  • ゲーム内でですか?

  • 永野

    そうです。いろいろなメーカーの方が一般プレイヤーに紛れて『PSO』に潜入していて、密かにコンタクトを取ってくるんです。皆さん、仕事熱心ですよね(笑)。

  • (笑)。

  • 永野

    それで『FFXI』はと言うと、サービス開始時から興味はあったのですが、プレイステーション2本体に加えてHDD(PlayStation BB Unit)も必要で、プレイ環境を揃えるハードルがすごく高かった。さらに、『UO』と『PSO』も遊んでいたため、「『FFXI』まで遊ぶ時間を作るのは、ちょっと難しいかもなあ……」と。そうこうしているうちにWindows版が発売されたので、「これならすぐ遊べるな」と思って『FFXI』をスタートしました。これでようやく『FFXI』の話ができますね(笑)。

ヴァナ・ディールでの海外プレイヤーとの交流の楽しさ

  • 『FFXI』はおひとりで始められたのですか?

  • 永野

    『ジラートの幻影』発売後に知人のいるワールドではじめたのですが、僕が遊ぶ時間帯は日本人がほとんどいなかったんです。さらに当時の僕はゲームシステムが理解できておらず、MOとMMOの違いにもとまどいました。それで「ちょっと僕には合わないかも……」と感じて、いちどフェードアウトしちゃったんですよ。

  • なんと。そこから何をきっかけに復帰されたのでしょうか?

  • 永野

    その後に某ゲームクリエーターから「俺のいるワールドで遊ばない?」と誘われて、最初とは違うワールドで新しいキャラクターを作って再開することになりました。そこで遊びかたを教わりながらプレイしていたのですが、今度は別の某ゲームクリエーターからも「うちのワールドで遊びませんか?」と誘われて、最初のキャラクターをそのワールドに移転して遊び始めたんです。

  • ゲームクリエーターから誘われまくりですね(笑)。

  • 永野

    そのワールドには『PSO』でいっしょにプレイしていた人たちもいたので、彼らと遊んでいたのですが、みんながいろいろと手伝ってくれるんですよね。それ自体はありがたかったのですが、僕のミッションを手伝うためだけに夜遅くまで何時間も拘束させてしまうことが申し訳なくて、精神的な負担になっていたんです。それで、また少し疎遠になってしまって……。

  • なるほど。

  • 永野

    そんなとき、英語でシャウトしてる人がいて「ミッションを進めたい」とtellを送ってみたら「手伝ってあげるよ」と。それで、その人とそのLSのメンバーが手伝ってくれて、ミッションが終わった後にそのLSに入れてもらいました。そのときのジョブは、みんなをサポートできるように赤魔道士だったかな。

  • それをきっかけに、海外のプレイヤーとの交流が始まったのですね。

  • 永野

    さらに、別のワールドに作成したキャラクターでも北米プレイヤーのLSに入ったのですが、そちらは東海岸のプレイヤーがメインでした。最初に入ったほうは西海岸側のLSだったためゴールデンタイムがずれており、そこで初めて「同じアメリカでもかなり時差があるんだなあ」ということを実感しました。東海岸と西海岸で3時間も違うんですよね。それで、どちらのキャラクターも彼らに手伝ってもらって……ミッションもランク10まで進めたかどうかは忘れてしまいましたが、かなり進めることができました。

  • ミッション以外にも、海外のプレイヤーとはよく遊んでいたのですか?

  • 永野

    よくいっしょにレベル上げをしていました。日本の多くのプレイヤーが狩り場もジョブもガチガチに決めるのに対し、自分のまわりの海外プレイヤーは「なんでもいいから来てくれる?」といった感じでしたね。そして行ってみると、そもそも狩り場の適正レベルに足りていなかったり(笑)。よく言えば、すごく大らかなんです。効率とかぜんぜん気にしていなくて、それが逆におもしろかったです。

  • 以前のコメントでは、「狩り場に行ったらモンクしかいなかった」というエピソードもありましたよね。

  • 永野

    そうそう。ある日「狩り場にいるんだけれど、ヒーラーがいないんだよ」と言われて、赤魔道士でクフタルの洞門に手伝いに行ってみると、タルタルが5人でクラブ族と戦っていて、さらに全員がモンクで……。「回復をお願い!」と言われるんだけど、どこにターゲットがいくかわからないから、パーティリストのHPバーを凝視しながらもぐら叩きのようにケアル、ケアル、ケアルと……。

  • (笑)。

  • 永野

    ギリギリでコンバートして必死にMPのやりくりをするなど、赤魔道士の僕の負担は大きかったですが、火力だけはあったので経験値はけっこう稼げましたね。レベルも3つくらい上がったんじゃないかな? たいへんだったけど、これも楽しかった思い出です。

※後編は2025年3月26日公開予定

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