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-WE GREW VANA’DIEL-
“『FFXI』20年の軌跡”インタビュー 第1回
伊勢幸一 パート1

『ファイナルファンタジーXI』(以下、『FFXI』)の20周年を記念して5月8日にYouTubeで配信された特別番組『WE ARE VANA'DIEL』。番組内では“WE GREW VANA’DIEL”と題し、『FFXI』の開発に携わった方や、他社クリエイターも含めた関係者のさまざまな証言が映像等で公開された。しかし、それらは取材内容のほんの一部にすぎない。ここでは、関係者それぞれが語る“『FFXI』20年の軌跡”を、改めてインタビュー形式でお届けしていこう。
 その第1回は、『FFXI』や『プレイオンライン』開発時におけるネットワークシステムを統括した伊勢幸一さんへのインタビュー。『FFXI』はスクウェア・エニックスにとって初の自社開発MMO(多人数同時参加型オンライン)RPGとして登場したが、それはゲーム内容だけでなく、ネットワークシステムの構築においても、新たなチャレンジの連続であった。このパート1では、そんな『FFXI』の開発が始まるまでの伊勢さんの来歴についてお話をうかがった。

『ファイナルファンタジーXI 20 周年記念放送 WE ARE VANA'DIEL』

伊勢幸一

ネットワーク方面に精通するエンジニア。1996年にスクウェア(当時)に入社し、スクウェアUSAのホノルル・スタジオの立ち上げなどに参加したのち、技術情報部のシニアマネージャーおよびプレイオンラインのサーバーシステムディレクターとして、『FFXI』のネットワークシステムの構築を担当する。2016年より、さくらインターネット株式会社の取締役に就任。

当時新しく登場した“ネットワーク”にいち早く注目

  • 伊勢さんは『FFXI』を含むプレイオンラインのネットワークシステムを構築されましたが、まずは本題に入る前に、エンジニアを志すことになった経緯からお聞かせください。

  • 伊勢

    私は大学で機械工学を専攻しまして、卒業後は日立系の機械メーカーに就職し、その後に関連グループの研究所へ出向となりました。機械産業は成熟した歴史ある業界ですので、当初は「イノベーティブ(革新的)なことはあまり起こらないのでは」と感じていましたが、実際は自動組立や作業用ロボットなどの設計シミュレーションにコンピュータが使用されていて、その自動処理の様子に衝撃を受けたのを覚えています。また、当時のコンピュータ業界はUNIXやC言語(※)が出てきたばかりで、世界でもまだ未成熟な分野だったので、第一人者になれる可能性がありました。そのため、「こちらの方面で勝負しよう」と考え、コンピュータ業界への転職を決意しました。

    ※UNIXは1969年に誕生した、コンピュータの操作や運用を司るオペレーティング・システム(OS)。C言語はコンピュータプログラムを書くために開発された汎用のプログラム言語で、UNIXのほとんどの部分がC言語によって記述されていた。
  • 転職後は、どのような経緯でネットワーク方面を専門とされたのでしょうか?

  • 伊勢

    当時はイーサネットやTCP/IP(※)が登場して間もなく、ネットワークエンジニアという業種自体がまだメジャーではありませんでした。転職先の先輩方も、UNIXやVAX(※)に詳しい人は多かったのですが、ネットワーク方面はそれほどでもなかったと思います。ですから、「もし私がネットワーク方面に精通すれば、きっと社内で存在感を示せるだろう」と考え、その目標に向かってがんばっていきました。

    ※イーサネットはローカルエリアネットワークの通信プロトコル(通信規格)。TCP/IPはインターネットを含むコンピューターネットワークにおける、通信プロトコル。
    ※VAXは米国のディジタル・イクイップメント・コーポレーション(DEC)が開発・販売した32ビットのミニコンピュータシリーズおよびそのアーキテクチャー(基本設計)。
  • ネットワーク黎明期において、その重要性に早々に気付かれたと。

  • 伊勢

    その後、転職先の会社では7年くらい働いて、ネットワークエンジニアとして順調に実績を積むことができました。するとしだいに、「我々が手掛けるネットワークシステムを用いて、最終的にどういったモノができ上がるのだろう?」という部分が気になってきたのです。でも、エンジニアの仕事は基本的に“裏方”なので、最終的な成果物に直接関わることは少ない。そのことに対し、少しずつ物足りなさを感じていました。

  • エンジニアリングはモノ作りには欠かせない要素ですが、どちらかというと“縁の下の力持ち”的な仕事ですよね。

  • 伊勢

    そういった中で、当時のスクウェアがネットワークエンジニアを募集していたのを目にしたのです。言うまでもなくスクウェアはゲームメーカーなので、その成果物はゲームという形で明白です。その開発に携われば、インフラの構築からゲームが完成するまでの流れを横断的に見ることができるだろうという考えで、スクウェアへ転職することにしました。

  • 伊勢さんは、いち早くネットワークに着目されていましたが、当時はそういったエンジニアの方が多かったのでしょうか?

  • 伊勢

    少なかったと思いますよ。それに、当時ネットワークの知識を持っていたエンジニアの多くは、ISP(インターネットサービスプロバイダー。通信事業社)に就職することが多かったですから。私が入社したときのスクウェアは、プレイステーション向けの開発環境を整えるために、インフラ環境をTCP/IPに移行している最中でした。でも、その方面に詳しいエンジニアは、入社当時は数名しかいなかったですね。

  • プレイステーション向けの開発環境ということは、タイミング的には『ファイナルファンタジーVII』(以下、『FFVII』)などを開発していたころでしょうか。

  • 伊勢

    まさに、『FFVII』の開発作業がピークに差し掛かっていたころに入社しました。スクウェアの内定が決まった直後に、「ファイナルファンタジーVII、始動。プレステ―ション」というテレビCMを見て、心底びっくりしたのを覚えています。

まさかのホノルル・スタジオへの出向

  • スクウェアがプレイステーション向けにゲームを開発するという、ひとつのターニングポイントを迎えていた中、伊勢さんは入社されたわけですね。

  • 伊勢

    入社後、しばらくは順調に仕事をしていたのですが、約1年が経過したころに状況が一変します。スクウェアUSAがハワイにホノルル・スタジオを設立して、その現地でのインフラ構築を担当することになったのです。最初、坂口さん(坂口博信氏。『FF』シリーズの生みの親のひとり)からは、「これからホノルルで『FF』の映画を作るから」と言われて、思わず「は?」と聞き返してしまいました(笑)。

  • ちなみに、それまで海外勤務の経験はあったのでしょうか?

  • 伊勢

    スクウェア入社後にロサンゼルスなどへ出張したことは何回かあって、カタコトの英語でとりあえず生活ができる程度でした。そういったこともあり、最初は「スタジオの立ち上げと並行して現地募集を行って、いいエンジニアが見つかったら業務を引き継いで帰国すればいいかな」と、気楽に考えていたのです。でも、よくよく考えると、当時ホノルルにネットワークエンジニアなんてそうそういるわけがないんです(笑)。けっきょく、3年半くらい滞在することになってしまいました。

  • 当時のホノルル・スタジオは、具体的にどういったタイトルを開発していたのでしょうか。

  • 伊勢

    『ファイナルファンタジーIX』や『チョコボの不思議なダンジョン2』、紆余曲折の末にホノルル・スタジオで開発することになった『パラサイト・イヴ』などが挙げられますね。もちろん、映画の『ファイナルファンタジー』(2001年公開)もそうです。

  • 映画については、当時の状況を語れる方にお会いできる機会がなかなかないため、ぜひおうかがいしたいです。

  • 伊勢

    当時は、“ゲームを題材にした映画”というだけでも珍しかった時代でした。しかも、あの映画ではキャラクターを含む全編をフル3Dで描いていて、それは世界初の試みなわけです。でも、社内のスタッフは怖じ気づくどころか、逆に「じゃあ、オレたちが“世界初”を成し遂げてやろうぜ!」という気概に満ちていました。

  • スタッフの熱量を感じますね。その挑戦の中で、とくに苦労したのはどのような部分でしたか?

  • 伊勢

    まずは制作にあたり、デジタル・ドメインやリズム&ヒューズ・スタジオ、ピクサー(※)に取材に行って、システムの規模やスペック、バッチシステム(※)を学んできました。でもやはり、“世界初”のハードルは我々が想像していた以上に高かった。

    ※デジタル・ドメイン、リズム&ヒューズ・スタジオ、ピクサー・アニメーション・スタジオは、いずれもVFX(コンピュータによる視覚効果)やCGアニメーションを手掛けるアメリカ合衆国の映像制作会社。
    ※バッチシステムとは、多量のデータを一連の流れで処理するシステムのこと。
  • 当時の最高級のレンダリングファーム(※)をもってしても、CG映画のたった1コマをレンダリングするのに数時間〜数十時間かかる、というような話もありましたよね。

    ※レンダリングファームとは、3DCGを構成するデータから動画に起こすための処理を担うコンピュータ群。
  • 伊勢

    さらに、レンダリングはCPUがあるだけではダメで、モデルやアニメーション、テクスチャーなどのデータをコンピュータに集める必要があるのですが、動画1秒間あたりのデータが1ギガバイトくらいありました。そのうえ、当時のネットワーク環境では、開発スタジオがあるホノルルからロサンゼルスのレンダリングサービスを利用するのも、転送量的に無理だという話になりまして……。さらに、レンダリングツールに『Maya』や『RenderMan』を利用していましたが、そのライブラリー(※)の更新が3日に1回あり、その都度レンダリングファームすべてを更新しなければいけない。とてもリモートでは対応できないと思いました。

    ※『Maya』や『RenderMan』 は3DCGレンダリング用のソフトウェアで、ライブラリーとはソフトウェアが動作するために必要な機能群をまとめたファイル。
  • その問題はどのようにして解決されたのですか?

  • 伊勢

    当時、加藤さん(加藤俊明氏。スクウェアUSA在籍時には、大域照明レンダラー“Kilauea”の開発を手掛けた)といっしょに、IntelのCPUとLinux(※)で安価に超高速レンダリングファームが作れないかと研究開発していたのですが、それを坂口さんが聞きつけて、「お前がいま作っているレンダリングファームを映画にも使えるようにしてくれ」と。当初、映画のレンダリングはSGI(※)で行うと聞いていましたが、費用面の問題もあり、ホノルルのスタジオ最上階にIntel CPUとLinuxベースの自前のデータセンターを作りました。当時はまだ1Uサーバー(※)もない時代でしたが、数Uサイズのラックマウント型のサーバーを自分たちで設計して作っていましたね。

    ※LinuxはUNIX系のOSの一種。
    ※SGIとは、シリコングラフィックス社の高性能ワークステーション。3Dゲーム開発などに用いられた。
    ※1Uサーバーとは、データセンター向けの薄型サーバー。サーバー用ラックに効率よく多数のサーバーを配置できる。

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