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『FFXI』22周年スペシャルインタビュー
宣伝スタッフ鼎談
羽入田新&片山理恵子&河本亜矢子 <前編>

2024年5月16日にサービス開始から22周年を迎えた『ファイナルファンタジーXI』(以下、『FFXI』)。その歴史について、この“WE ARE VANA’DIEL”に掲載されたものをはじめ、さまざまなインタビューで関係者のエピソードが語られてきた。そうした中、今回はこれまでほとんど語られる機会のなかった『FFXI』の宣伝スタッフへのインタビューをお届けする。

お話をうかがうのは、サービス開始前~初期の『FFXI』の宣伝を担当していた羽入田新さん、片山理恵子さん、河本亜矢子さん。彼らに宣伝スタッフの視点から見た『FFXI』、そして『FF』シリーズ初のオンラインゲームを世に知らしめるために奮闘した苦労を聞く。まずこの前編では、おもにサービス開始前の『FFXI』の宣伝を取り巻く状況についてうかがった。

羽入田新

2010年まで、スクウェア・エニックスにてオンライン事業推進部長、および『FFXI』初代宣伝プロデューサーを務める。また2003年から2008年にかけて、植松伸夫氏(『FF』シリーズ全般で楽曲を手掛けるコンポーザー)をリーダーとするスクウェア・エニックス関係者で構成されたバンド“THE BLACK MAGES”のドラム担当としても活躍した。

片山理恵子

『FFVIII』、『FFIX』、『FFX』などの宣伝担当を経たのち、サービス開始前から現在に至るまで『FFXI』の宣伝を担当。またゲーム映像を使った『FFXI』のプロモーション映像では、ヒューム女性のキャラクター“Destiny”としても知られる。2021年までブログ“FFXI Creator's voice Ζ”の執筆も担当。

河本亜矢子

スクウェア(当時)に入社後、『フロントミッション サード』や『キングダム ハーツ』などの宣伝や海外案件を担当したのち、『FFXI』の宣伝を担当。ゲーム映像を使った『FFXI』のプロモーション映像では、ヒューム女性のキャラクター“Julia”として知られる。現在はスクウェア・エニックスで海外マーケティングを担当。



参考:FFXI βライブカムイベント 【2002年 5月15日 】

3人に共通するスクウェアへの入社経緯

  • この“WE ARE VANA’DIEL”では、これまで『FFXI』に関係するさまざまな方にお話をうかがってきました。しかし、宣伝担当の方へのインタビューは今回が初となります。そこで、まずは当時を振り返るために、皆さんそれぞれのスクウェア(当時)への入社経緯からお聞かせください。

  • 羽入田

    僕は大学を出た後、映画の配給会社に入社したんです。仕事の内容としては“海外の映画を買い付けて日本で配給する”という仕事だったのですが、3年くらい働いてみて転職を考えるようになりました。そんなある日、僕の机の上に『週刊ファミ通』が置いてあって、ちょうどスクウェアの求人広告ページが開いた状態だったんです。それを見て「なんだこれ?」と思っていたら、「おい羽入田。お前そろそろ転職する気だろう? お前に向いていそうな求人がファミ通に出てたから置いといたぞ」と先輩に言われたりして。

  • 雑誌の求人広告がきっかけというケースは、これまで“WE ARE VANA’DIEL”でお話をうかがった方にも数多くいらっしゃいました。やはり宣伝の部署でも大勢の人員を募集していたということでしょうか。

  • 羽入田

    じつはスクウェアが求人広告を打つほど大規模に宣伝スタッフを募集したことは、それまでなかったようです。プレイステーション参入によって開発タイトルが増えるので、宣伝スタッフも増やそうというタイミングだったのかなと思います。それで実際にファミ通に載っていた求人に応募し、入社することができました。1996年3月のことです。

  • 『FFXI』の担当になるのはまだまだ先になりますね。その間の仕事歴もお聞かせください。

  • 羽入田

    僕が入社したのは『FFVII』が発売される10カ月ぐらい前で、スクウェアがプレイステーション参入を発表したころだったと思います。そして同時期に、コンビニエンスストアでゲームを販売するための会社としてデジキューブ(※)が生まれました。

    ※1996年から2003年まで存在したスクウェア設立の株式会社。コンビニエンスストアでのゲームソフト販売のほか、サウンドトラックCDの販売や攻略本の出版事業も行っていた。
  • プレイステーションへの参入と『FFVII』の発表、そしてデジキューブの設立は当時かなり衝撃的でした。

  • 羽入田

    スクウェア社内では「コンビニ専売で複数のゲームを発売しよう」ということで、外注でいくつかのタイトルを開発していまして、僕はまずその中の2タイトルの担当になったんです。宣伝だけでなく、マニュアルとパッケージの制作とか、開発会社とのスケジュール管理とか、いまで言うプロジェクトマネージャー的な役割も兼ねていて、ゲーム開発から発売までの仕組みを早いタイミングで勉強することができました。担当タイトルの中でも麻雀ゲーム(『プロロジック麻雀 牌神』)は売上もかなりよかったのを覚えています。

  • 新天地でいきなり成果が出たと。

  • 羽入田

    まぁ、時期もよかったんでしょうね。その後に『フロントミッション セカンド』(※)の宣伝プロデューサーに任命されました。その流れで続編の『フロントミッション サード』の宣伝も担当することになったのですが、前作のときにいた部下が別タイトルの担当になったので新しい部下が必要になり、採用活動をしたんです。そこで出会ったのが河本でした。確か、以前はまったく別の業種にいたんだよね。

    ※1997年9月にプレイステーションで発売されたシミュレーションRPG。戦闘用ロボット“ヴァンツァー”を操る戦闘が特徴のシリーズで、1999年9月には『フロントミッション サード』が発売されている。
  • 河本

    建築系の出版関係ですね。ただタイミング的には第二新卒の状態でした。

  • 羽入田

    河本は履歴書の文字が妙に力強くて(笑)、会ってみたらサバサバしていて頭の回転も速くて話もしやすく、「いいかもしれないな」とビビッときたので採用しました。

  • それが羽入田さんと河本さんの出会いだったのですね。

  • 羽入田

    そして『フロントミッション サード』が発売された後くらいに、スクウェアがプレイステーション2に参入することになり、それを機に宣伝部の組織体制が変わることになったと記憶しています。それまではタイトルごとに担当がいたのですが、それを全部縦割りにしたんです。たしか広告チーム、パブリシティチームのふたつだったと思いますが、業務ごとに部署を分けることになり、僕は広告チームを取りまとめることになりました。

  • タイトルとしては何を担当されていたのでしょうか。

  • 羽入田

    最初は『バウンサー』、『オールスタープロレスリング』などを担当して、その後『FFX』や『キングダム ハーツ』の業務が始まり、とても忙しかったです。しかも『FFX』 の仕事が佳境のときに結婚したので、『FFX』のCM撮影と結婚式がかぶりそうになって、「頼むから、結婚式の日だけは避けてください!」とお願いしたのを覚えています。

  • 一同

    (笑)。

  • 羽入田

    バタバタしていてハネムーンは翌年まで行けなかったんですが(笑)、『FFX』 の発売後に少し長めのお休みをいただいて、その後出社したら、当時の宣伝部長だった橋本真司さん(※)に「『FFXI』の宣伝をやってくれない?」と相談され、『FFXI』を担当することになったという感じです。

    ※スクウェア・エニックスの元専務取締役。『FF』シリーズを筆頭に数々の作品のプロデュースを手がける。
  • そのときの心境はいかがでしたか?

  • 羽入田

    すでにその時点で、『FFXI』がオンラインゲームとして発売されることは社内の皆も知っていました。とはいえ、オンラインゲームがどういうものなのかは、まだほとんど理解されていなかったと思います。『Ultima Online(ウルティマ オンライン)』(以下、『UO』。※)や、『EverQuest(エバークエスト)』(※)をやり込んでいる人もわずかでした。かくいう僕も、「インターネットを介して一緒に遊ぶと言われても、ぜんぜんピンとこないな……」と思いながら仕事を引き受けた記憶があります。

    ※『Ultima Online(ウルティマ オンライン)』は、1997年にサービスが開始された、MMO(多人数同時参加型オンライン)RPGの草分け的なタイトルとなる。 ※『EverQuest(エバークエスト)』は、1999年に米国でサービスを開始した海外産のMMORPG。
  • 当時はほとんどの人が、そういった状態だったかと思います。

  • 羽入田

    最初はまったく予備知識もない状態で、「まあ、どうにかなるだろう」と楽観的に考えていました。でもそこからわりとすぐのタイミングで、田中さん(田中弘道氏。『FFXI』初代プロデューサー)、石井さん(石井浩一氏。『FFXI』初代ディレクター)、松野さん(松野泰己氏。『プレイオンライン』初代プロデューサー)の3人から会議室に呼び出しがあったんですよ。それで松野さんがホワイトボードにスケジュールをバーっと書いた後、「予定がこんなに決まっているんだから、ちゃんとやらなきゃダメだろう」と諭されました。そのあいだ田中さんと石井さんは机に肘をついて手を組んで、ほぼ何も言わずに険しい顔をしているという状況で。

  • 河本&片山

    こわい、こわい……。

  • 羽入田

    そうやって気合いを入れられて、以降はエンジンをフルスロットルにして仕事をしましたね。それが、2001年の9月か10月くらいでしょうか。おそらくβテストの少し前だったと思います。最初は「オートアタックって何?」といった状態で、木越さん(木越祐介氏。『FFXI』元プランナー)に基本的な部分からたくさん質問して、βテストのマニュアルを一字一句書くことで一気に理解していきました。

  • ここまでにも少しお話に出てきましたが、つぎは河本さんが『FFXI』を担当するまでの経緯をお聞かせください。

  • 河本

    先ほどのお話の通り、最初は建築系出版関係の会社に勤めていました。もともとゲーム業界で働くことに興味があったのですが、その当時のスクウェアは新卒の募集がなかったんです。でもその後、いろいろあって転職活動をはじめた際、求人情報誌でスクウェアが宣伝の人員を募集していたので、それを見て応募したわけです。

  • そして、羽入田さんが河本さんを採用したと。

  • 河本

    入社後は、まず『フロントミッション サード』を担当して、その後は海外案件を扱う担当に任命されました。でも、チームにはほかに誰もいなくて、私ひとりだったんですよ。そんなひとりぼっちの海外宣伝チームで淡々と仕事をしている横で、広告チームとかパブリシティチームは楽しそうにしていて、「いいなあ」と思いながら見ていたことを覚えています。

  • 羽入田

    僕なんかは研究と称して他社のゲームを遊んだりしてたしね(笑)。

  • 河本

    そんな中、やがて別の部の人たちがその海外の仕事を引き継ぐ話になり、私は『キングダム ハーツ』を担当することになりました。

  • 羽入田

    それでまた一緒に仕事をすることになったんですが、わりとすぐに僕が『FFXI』 の仕事をすることになって。

  • 河本

    その際、仕事について羽入田さんに相談していたところ、「『FFXI』の宣伝を一緒にやろうよ」と声をかけてもらい、『FFXI』チームに入ることになったわけです。そのころにはすでに片山さんもいて、先輩としていろいろ教えてもらいました。

  • では、今度は片山さんが『FFXI』を担当することになった経緯をお聞かせください。

  • 片山

    大学を卒業後、最初はテレビ番組やイベント制作のアシスタントディレクターをしていました。そして1年半くらい経った後、「よし、転職だ!」と思って求人情報誌を見ていたら、スクウェアが宣伝スタッフを募集していたので「これだ!」と応募しました。

  • やはり片山さんも求人広告がきっかけだったのですね。

  • 片山

    『FF』シリーズとは『FFVI』が出会いで、『FFVII』も大好きな作品だったので、「この会社に行こう!」と決意しました。それで面接を受けてからしばらくした後、地方でイベントスタッフをしているときに1次審査合格のメッセージが留守電に届き、山に向かって「やったー!」と叫んだのを覚えています。その後、“最終面接に合格して入社が決まりました”というメッセージが届いたときも地方にいました(笑)。

  • ハードな仕事だったというのが伝わってきます(笑)。

  • 片山

    そして入社後は最初に『FFVIII』を担当して、いくつかのタイトルを挟みながら『FFIX』、『FFX』と担当しました。その後は、『FFXI』の前に『プレイオンライン』を担当しています。ただ、当時は『UO』こそ遊んでいたものの、インターネットやネットワークそのものについてはよくわからなかったので、伊勢さん(伊勢幸一氏。当時の『プレイオンライン』サーバーシステムディレクター)のインタビューなどに同行して、その話をメモして勉強しました。

  • そのまま『プレイオンライン』担当を続けるのではなく、どのようなきっかけで『FFXI』を担当することになったのですか?

  • 片山

    当時、仕事でいろいろ悩んでいたことを羽入田さんに相談した際、「『FFXI』の宣伝を一緒にやろうよ」と声をかけてもらったんです。それをきっかけに『プレイオンライン』の宣伝と並行して『FFXI』も受け持つことになりました。ですから羽入田さんは、“仕事で悩んでいる人を見つけて、新しい環境を作ってくれる人”といった感じでした。

  • 羽入田

    そうだったっけ?相談しやすいキャラだったのかな(笑)。

  • 河本

    自分から見ても羽入田さんは不思議な存在でした。部内の誰かと特別仲よくしているわけでもなく、ひょうひょうと仕事をこなしているイメージで。

  • 片山

    ある意味、孤高の存在でしたね。ほかにこういう人はいなかったと思います。

  • 羽入田

    その発言はぜひ掲載してください(笑)。とはいえ、自分ではそんな意識はまったくありませんでしたね。「仕事に対する意識が自分と近い人であれば大丈夫だろう」という意識で声を掛けていました。

インターネット黎明期にオンラインゲームの魅力を伝えるために

  • ここからは『FFXI』の立ち上げからサービス開始に至るまでのお話を、具体的にうかがっていきます。まずは「『FF』シリーズがオンラインゲームになる」という話を耳にしたとき、どういった感想を持たれましたか?

  • 羽入田

    当時は“ひとりでレベル上げやアイテム集めに没頭するのが『FF』の醍醐味”だと思っていたので、「オンラインゲームにしておもしろいのか?」「ゲームとして成立するのか?」といった疑念のほうが大きかったように思います。また、当時はインターネットを利用していたものの、まだ電話回線を利用するダイヤルアップの時代で、「この通信スピードで本当にゲームができるのかな……?」という疑問もありました。ですから、『FFXI』が売れるかどうかというところまでは、まだ具体的に意識が及ばなかったですね。

  • 河本さんと片山さんはいかがでしたか?

  • 河本

    私は羽入田さんのような意識はあまりなくて、すんなりと受け入れていました。たぶん、すでにオンラインゲームで遊んでいる人たちがまわりにいたからなのかな? 若かったですし、「どうとでもなる」と思っていたのかもしれません(笑)。

  • 片山

    『FF』は新作が出るたびに毎回何百万本も売れていたシリーズなので、当時はまだハードルがかなり高かったオンラインゲームになる『FFXI』が過去のナンバリングと比較されることについては、「たいへんな戦いだな……」と思いました。ただ、『FF』はこれまでも常に想像をはるかに超えたチャレンジをし続けていましたし、田中さんや石井さんはそれに対してブレイクスルーを実現してきた人たちなので、「『FFXI』もうまくいくんじゃないかな」という楽観的な気持ちはあったと思います。私も若かったから、能天気なだけだったのかもしれませんが(苦笑)。

  • 羽入田

    意識が変わったのは、開発チームのそばに席を作って仕事をするようになってからですね。先ほど言ったように当初は疑問もあったのですが、実際にゲームを作っている方々の近くにいたら、そうした疑問はどんどん解消されていきました。この変化はよく覚えています。

  • 「これはいけそうだ」という手応えを感じたということですか?

  • 羽入田

    そうです。とくに印象的だったこととしては、以前に“WE ARE VANA'DIEL”の“関係者からのメッセージ”でもコメントしたのですが、公開のβテストよりずっと前に、社内限定でたくさんのキャラクターを飛空艇に乗せて飛び立つ負荷テストをしたんです。そのときはまだキャラクターの外観も粗い状態だったのですが、バストゥーク港に停泊した飛空艇に乗り込んで待っていたら、やがて飛び立つカットシーンが始まりました。その後、飛空艇の船内に映像が戻って自分のキャラクターが動かせるようになると、そこには一緒に飛空艇に乗った皆がいるんですよ。そのときに感じた「ああ、こういうことか!」という感覚は一生忘れないと思います。

  • いまとなってはごく当たり前のことですが、オンラインゲームで他者と空間を共有するのは感動的でしたよね。

  • 羽入田

    その後も、飛空艇の中で皆がわらわらと動き回りながらチャットで話したりしていて、「これでゲームができるなら、すごいことになるな」と実感したのは鮮明に覚えています。

  • 従来の宣伝手法でそういった体験を伝えるのは難しかったと思いますが、具体的にはどのようにプロモーションしていこうと考えましたか?

  • 羽入田

    やはり、当初自分の中にあった「本当におもしろいのか?」という疑念は多くの人が感じることだろうと思い、それを取り払ってもらうには実際に触れてもらうことが大事だと考えました。ただ当時は、ゲーム機で体験版をダウンロードするみたいなことはできませんでしたから、その方法から考える必要がありました。そこで、「まずは僕らと接点のある人に触れてもらおう」と考えて、総務部に「会議室をひとつください」と直談判しました。その会議室にPS2を6台置いて、訪れた人たちに触ってもらうための“プレイオンラインルーム”というものを作ったんですよ。

  • そこにメディアの方々などを招いてプレイしてもらったわけですね。どのくらいの時期のことでしょうか?

  • 羽入田

    おそらくβテストと同時期だったかと思います。結果、実際に触ってもらったメディアの皆さんにも「おもしろい!」と言ってもらえたので、この部屋を作った意義はけっこう大きかったと思っています。

  • そのころの河本さんや片山さんが印象に残っていることはありますか?

  • 河本

    宣伝用の素材を準備する際に、“オンラインゲームと、それまでのゲームとの違い”をすごく感じました。片山さんとふたりで、スクリーンショットの画角やモンスターの位置などについてチャットで会話しながら撮影したのが、すごく新鮮だったのを覚えています。

  • 片山

    いままでのゲームのスクリーンショットはひとりで撮ることができましたが、パーティバトルのスクリーンショットは他者と協力して撮影しないといけないので、それがたいへんでした。同時に技を撃つときなどは「いっせーの」という掛け声に合わせてボタンを押すのですが、タイミングを合わせるのが難しくて「ああっ! やり直し!」と叫ぶようなこともよくありましたね。ちなみに、当時の『FFXI』のPVは羽入田さんが撮っていたので、羽入田さんの指示に合わせて私たちがプレイしていました。

  • 羽入田

    そうそう。あのときはとにかくゲーム内の環境を待つのがたいへんでした。明るい日中のスクリーンショットが撮りたいと思っても、ゲーム内が夜だったら30分くらい待たなくてはいけない。天候や太陽の位置なども影響が大きいので、撮影のタイミングもなかなかシビアで……。

  • それは『FFXI』の映像を撮影する人全員が苦労してきた点ですね(苦笑)。

  • 羽入田

    とくに拡張ディスクのPVを撮るときは、機材を持ち込み、編集スタジオからテストサーバーに接続して撮影するのですが、昼待ち、晴れ待ち、場合によっては夜待ちもあり、PVを1本撮るのに編集スタジオに丸1日籠もっていました。翌朝までスタジオにいたことも何度かあります。

当初からWindows版を見据えて施策を準備

  • ゲーム体験をどう伝えるか、という課題だけでなく、『FFXI』はネットワーク環境とPlayStation BB Unit(ハードディスクドライブ)が必須で、プレイ環境を整えることに対する周知もたいへんだったかと思います。そういった部分は、どうやってプレイヤーに伝えようと考えましたか?

  • 羽入田

    当時、そこは本当に悩みどころでした……。まず、PlayStation BB Unitは一般流通販売ではなく、ソニー・コンピュータエンタテインメント(当時。現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)さんの通信販売かインターネットプロバイダでの専売になりましたので、その周知が必要でした。その一方では、わりと初期の時点からWindows版に向けた施策も動き出していました。「パソコンでゲームを遊ぶ人たちは増えているから、そういう人たちに訴求できるようにWindows版の販売施策も最初から準備しておこう」という話を田中さんとしていたのを覚えています。

  • PS2版が発売した半年後には、もうWindows版が発売されましたからね。

  • 羽入田

    とはいえ、まずはPS2版の発売が先ですから、最初はとにかくプロバイダをたくさん回って、「PlayStation BB Unitをユーザーにたくさん売ってください」というお話をさせてもらいました。当時のプロバイダにとって、通販で周辺機器を売ることにどれほどメリットがあったかはわかりませんでしたが、それぞれの担当者からは「おもしろそうなゲームですね」という反応をいただけたのは覚えています。そういったこともあり、『FFXI』のスタートダッシュのプレイヤー数は僕の想定以上でした。結果、サービス開始当日に決済用のサーバーがダウンすることになりますが……。

  • サービス開始日のドタバタはいろいろな方からもうかがっています……。とはいえ、それも予想以上に『FFXI』に対する反響があったから、ということですね。

  • 羽入田

    ええ。サービス開始前の時点でも、「『FFXI』は売れないかもしれない」といった悲観的な考えはほとんどありませんでした。さらに、当時はパソコンのオンラインゲームのプレイヤーもそれなりの数がいて、Windows版にも広げる余地や伸びしろがあると感じていました。ちょうどインターネット環境が飛躍的に進化している時期でもあり、ADSLやFTTH(※)といった技術も出てきましたから、わりと早いタイミングからプロバイダやパソコンメーカーに足を運んでプレゼンテーションをしていました。

    ※ADSLは大容量のブロードバンドインターネット接続が可能な高速デジタル通信。日本では2001年ごろに急速に普及していった。FTTHは光ファイバーを利用した通信サービスで、こちらも2001年ころからスタートしている。
  • パソコンメーカーの方々の反応はいかがでしたか?

  • 羽入田

    とてもよかったですね。当時としては相当ハイスペックなパソコンでないと『FFXI』をプレイできませんでしたが、そういったパソコンは売れたときの利益も大きいのだろうなと。さらに「あの『FF』の最新作がパソコンでプレイできるの?」といった感じで、皆さんとても真剣に話を聞いてくださいました。とくにいい反応を示していただいたメーカーのひとつがデルさんです。当時のいちばんハイスペックなパソコンで『FFXI』がサクサク動いたので、「Windows版立ち上げのときには、一緒にやりましょう」という話をしましたね。

  • Windows版の発表会も話題になりました。

  • 羽入田

    Windows版の発売日の発表会は、デルやインテルの社長、NVIDIAの日本支社長などをお招きして大々的に行いました。スクウェアからは当時の社長である和田洋一さんや田中さんが登壇して、スピーチされたと思います。Windows版のプロモーションはここから本格的にスタートしました。

  • 出席者がすごい顔ぶれですね。

  • 羽入田

    NVIDIAさんにも「『FFXI』ではハイスペックなグラフィックボードが必要になるので、ぜひタイアップしましょう」というような話をして、ものすごく乗り気になっていただけました。ハイスペックなPCにもいろいろなモデルがあって、さらに自分でパーツを組み合わせてマシンを作り上げるユーザーさんもいたりするので、そのパソコンで『FFXI』が快適に遊べるかどうかを確認できるベンチマークソフトを田中さんの指示で作ったのは、ユーザーさんにとってもPCメーカーさんにとっても素晴らしい施策でしたね。

  • 田中さんも以前のインタビューで「ベンチマークソフトの施策は大成功だった」と話されていました。一時期、秋葉原のパソコンショップの店頭では、常に『FFXI』のベンチマークソフトの映像がモニターに映し出されていたのを覚えています。

  • 羽入田

    「『FFXI』ベンチのスコア10000突破!」といった売り方をしているパソコンもありました。秋葉原といえば、Windows版の『FFXI』が遊べる“リアルヴァナ・ディール”(※)というネットカフェも作りましたね。当初は「とにかくタッチポイントを増やす」ということを主眼に置いたプロモーションをしていました。

    ※メルコオンラインエンターテインメントが運営した『FFXI』専用のネットカフェ。2003年から2005年まで営業されていた。
  • 社内に作ったプレイオンラインルームに始まり、さまざまな施策を実施した結果が、プレイヤーの獲得につながっていったのでしょうね。

  • 羽入田

    メディアの皆さんには、本当にたくさん触っていただきました。なんと言っても、メディアの方々に『FFXI』のファンになってもらえた結果、そこからさまざまな形で情報を発信していただけたのが大きかったです。やっぱり、誰かが楽しそうにプレイしているのを見ると、「ちょっとやってみようかな?」というふうに思いますよね。それがプロモーションとしても非常にありがたかったです。

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