松井プロデューサーが『ファイナルファンタジーXI』(以下、『FFXI』)とゆかりのある人物と対談を行うスペシャル企画“プロデューサーセッション -WE DISCUSS VANA’DIEL-”。記念すべき第1回の対談相手は、『FFXI』初代プロデューサーの田中弘道さん。『FFXI』プロジェクトの立ち上げ、開発や運営の体制作り、そして田中さんのプロデューススタイルなど、計4回にわたって幅広く話を訊いていく。それでは、セッションスタート!
元スクウェア・エニックス(旧スクウェア)のゲームプロデューサーであり、『ファイナルファンタジー』シリーズの生みの親のひとり。開発立ち上げから2012年まで『FFXI』のプロデューサーを務める。現在(2021年)はガンホー・オンライン・エンターテイメントの執行役員開発担当本部長として、ゲームの開発に携わっている。
すべてのきっかけは「おもしろいからやってみろ」
- 松井
田中さんは僕の大先輩なので、やっぱり緊張しますね(笑)。最初は、田中さんが『FFXI』プロジェクトにどのような形で声が掛かったのかというところから話しましょうか。
- 田中
あまりに昔のことなので、記憶もおぼろげなんだけど(笑)。1996年にスクウェア(当時)がホノルルにスタジオを建てて、坂口さん(坂口博信氏。『FF』シリーズの生みの親のひとり)が『FF』の映画を作り始めるんです。それで2000年ごろだったでしょうか、ハワイでは日中は仕事で、夜は日本にいたころみたいに飲みに行けるところも少なくて、やることがなかったんでしょうね。坂口さんが『EverQuest(エバークエスト)』(以下、『EQ』。※)にハマって、「おもしろいからやってみろ」と。
※『EverQuest(エバークエスト)』は、1999年に米国でサービスを開始した海外産のMMO(多人数同時参加型オンライン)RPG。
- 松井
坂口さんとは『EQ』でいっしょに遊んだりされたのですか?
- 田中
坂口さんは当時勢いがあったギルドに入ってバリバリ冒険していたので、レベルがぜんぜん違ったんだよね。たまに、「君たちにこのお下がりをあげよう」と余り物をくれることはあったけど(笑)。僕らは新米装備なのに、坂口さんは立派な黄金の鎧を着ていたりして。
- 松井
田中さんがMMORPGを体験したのはそのときが初めてですか?
- 田中
そうだね。『Ultima Online(ウルティマ オンライン)』(※)もどういうものかは見ていたけど、実際にプレイはしていなかったので。
※『Ultima Online(ウルティマ オンライン)』は、1997年にサービスが開始された、MMORPGの草分け的なタイトルとなる。 このときの体験で、「よし『FF』もオンラインだ!」という流れになったのですか?
- 田中
そのころは、開発がプレイステーションからプレイステーション2(以下、PS2)に移り変わる時期で、今後のRPGの方向性としては、絶対にオンラインだろうと思っていました。『FF』シリーズもそちらへ行くんだろうなあと。ただ、MMORPGをもし開発するならバージョンアップをしていくことが必須条件で、内容を更新できないROM前提の当時の家庭用ゲーム機ではなかなか難しかった。そんなところに、ソニー・コンピュータエンタテインメント(当時)さんがPS2用のハードディスクドライブ(PlayStation BB Unit)を出すかも、という話が聞こえてきて、それなら作れるだろうということで開発がスタートした感じです。
- 松井
開発チームは田中さんが号令を掛けて召集したのですか?
- 田中
それこそ全社的な動きで、坂口さんがまずメンバーを集めるために声を掛けて回っていたかな。MMORPGはべらぼうに規模が大きいので、これまでの『FF』チームや『聖剣(伝説)』チームの規模では絶対にできないよねと。そのため、4~5つのチームが合流する形で『FFXI』プロジェクトが立ち上がりました。
1本の作品を作り上げられるチームを4つも5つも投入するわけですから、それはもう一大プロジェクトですね。
- 田中
僕らは『クロノ・クロス』の開発が終わったところでしたので最初に動き始めて、 大阪から『パラサイト・イヴ2』や『ブレイヴフェンサー 武蔵伝』を作っていたチームのメンバーを東京に呼び寄せて合流してもらいました。
- 松井
僕はそのころ『聖剣』チームにいて、早々に合流していました。
- 田中
2000年に“スクウェア ミレニアム”という発表会がありましたよね。そのときの『FFXI』のイメージイラストは『聖剣』チームの亀岡くん(亀岡慎一氏。『聖剣伝説2』プレイヤーキャラクターデザインを担当)が描いていて、『クロノ・クロス』チームにいた加藤くん(加藤正人氏。『クロノ・クロス』の監督・脚本・演出を担当)が『FFXI』の大枠のストーリーを作り始めていました。
- 松井
確か、『聖剣』チームは『聖剣伝説 レジェンド オブ マナ』の開発が終わって一段落していたんです。さて、つぎの企画をどうしようかと話し合っていたところに坂口さんがやって来て、「これからはオンラインだ!」と(笑)。
- 田中
僕も、何度か大阪の開発メンバーを説得しに行きましたよ。やっぱり、ふたつの拠点で開発するのは難しいと思うので、なんとか東京に引っ越してくれないかと。もちろん、家庭の事情などで大阪に残ったメンバーもいましたけど。
田中さんは『FF』の初期3作に関わった後、『FF』から離れて新しいものを作ってこられたと思うのですが、もう一度『FF』に戻るとなったときは、すんなりと受け入れられたのでしょうか?
- 田中
タイトルはあまり気にしていないんですよ。最初の『FF』にしても、『FFII』にしても、あくまで毎回新作として作っていましたし。
シリーズの暗黙のルールやゲームシステムなどには引っ張られないと。
- 田中
結果的にそのタイトルになったというだけです。じつは『聖剣伝説2』も、もともとは『FFIV』のつもりで設計していたものなんです。そこからいろいろあって、『聖剣伝説2』と『クロノ・トリガー』というふたつの作品が生まれました。
つまり『FFXI』も“『FF』であるかどうか”より、まずMMORPGを作ってみたいというのがモチベーションとしてあったわけですね。
- 田中
そうですね。でも、「MMORPGを作るなら『FF』だよね」ということは坂口さんと話していました。そこで、『FFオンライン』のような名前にするのか、『FF』のナンバリング作品として出すのかというところで、坂口さんが頑なに「ナンバリングだ」とこだわっていましたね。
なんと! 坂口さんがですか?
- 田中
たとえば、『FFワールド』といったタイトルだと、最新の本流としての『FF』ではない、スピンオフ作品に見られてしまうと。そこは坂口さん、ずっと言っていましたね。それで経営陣と揉めるわけですが(笑)。
- 松井
それだけ「MMORPGを本気でやるぞ」ということですよね。
- 田中
経営陣は後々ナンバリングからは外したがっていたんだよね。PS2本体だけでプレイできず追加ハードを購入する必要があり、必ずしもすべてのプレイヤーがプレイできるわけではないリスクがあるので。そんな中、坂口さんが2001年にスクウェアを退社して、ナンバリングを押し通す人がいなくなってしまうという(笑)。ただ、僕としては今後の『FF』シリーズはオンラインであるべきという気持ちを強く持っていたので、当時の和田社長(和田洋一氏)からは何度かナンバリング外せないかという打診を受けましたが、最終的には僕が社長を説得しました。
- 松井
開発中のたいへんな期間は、ほぼ田中さんが差配していましたよね、東京開発の現場監督ですから。坂口さんはハワイにお住まいでしたし。
坂口さんは『FFXI』の開発自体にはどのくらい関わられていたのですか?
- 田中
いちばん最初に『EQ』のプレイ日記みたいなものをA4の紙数枚くらいにまとめて送ってくれたんです。こういうゲームにしたいと。それが最初で最後と言ってもいいほどですね。
「あとはよろしく!」みたいな?(笑)
- 田中
『EQ』のゲーム内チャットで何度か話しましたが(笑)。坂口さんは映画と『FFIX』のリリースまでそちらにかかりきりでしたが、その後オンラインプラットフォームとしての“プレイオンライン”の設立のほうに全力でしたので。いわゆるソーシャルプラットフォームの走りみたいなもので、オンラインで最新のマンガが読めたり、音楽配信やスポーツの実況など、相当大規模な話になっていましたね。いまではどれも当たり前のネットサービスですが、当時としては時代を先取りしすぎていたのかもしれません。
松井さんは、突然「これからはオンラインだ!」と言われて『FFXI』チームの一員となり、戸惑いはなかったのですか?
- 松井
いえ。『聖剣』チームとしてつぎの作品を作ろうとしていたときに『FFXI』の話が来たのですが、そのころの僕の業務はグラフィックリソースのマネージメントやスタッフの工数管理が大半になっていて、ゲーム作りがちょっとつまらなくなっていた時期でした。MMORPGはそれまでのゲーム作りとはまったく違うもので、グラフィックにしてもひとつひとつを描き込むのではなく、同時に多くのキャラクターを表示させるための工夫が必要だったり、通信のラグを意識した設計思想が重要だったりと、また制作側に戻ってきたなという感じがして、すごくワクワクしていましたね。
エンジニア魂に火がつくというか。
- 松井
ただ、『聖剣伝説 レジェンド オブ マナ』のときに仕事を欲張りすぎて、死にそうな思いをしたんです。それ以降、これからは5割くらいの力で仕事をして、絶対に無理をしないつもりでいたのですが、気がついたらプログラムも書くことになっていて、またたいへんな思いをするという(苦笑)。
- 田中
松井くんはプランナーなのにいつもプログラムを書いているよね(笑)。
- 松井
まあ、そうなのですが(苦笑)。それにしても、巨大なチームでしたよね。田中さんにとっても、あそこまで人数が多いのは初めてでしたよね?
- 田中
オープニングムービーを手掛けたヴィジュアルワークス(※)まで入れると数百人にはなっていたかな?
※ヴィジュアルワークスは、『FF』シリーズや『ドラゴンクエスト』シリーズなどで、ハイエンドなフルCG映像を専門に手掛けているスクウェア・エニックスの映像制作部。現在ではイメージ・アーツ部と統合し、イメージ・スタジオ部として新設。 その数百人を率いて、未知なるMMORPGというジャンルに挑んだわけですが、チーム作りはどのようにして進めていったのでしょうか?
- 田中
僕らが坂口さんといっしょに『EQ』を遊んだように、まずはMMORPGのプレイを徹底的にしてもらいましたね。
やはり『EQ』でしょうか?
- 田中
そうですね。何カ月かは「これが仕事だから」と。
- 松井
自宅より会社の通信環境のほうがよかったので、ずいぶん会社でプレイしましたが、まだそのころは通信料が定額ではなかったんです。会社がある程度は負担してくれるのですが、1カ月の請求額が70000円とかになったこともあって、そのときは泣きそうでした(笑)。
- 田中
『FFXI』がサービスインするころ、ちょうどADSLが普及し始めましたよね。ケーブルテレビ会社などとも協力関係を結ぶために、スクウェアの営業陣が日本全国、津々浦々を飛び回っていたりして。
- 松井
PS2のハードディスクといい、ネットの常時接続といい、タイミングには恵まれましたよね。
- 田中
Windows版も出すにあたって、そこでPCメーカーやショップの思惑とも合致しました。『FFXI』のベンチマークソフト、いわゆる“タルベンチ”が店頭でのデモにもってこいだということで、いろいろと協力してもらえたのを覚えています。いわゆるデモではなくベンチマークソフトにしたことは、我ながら大成功だったと思います。
『FFXI』のチームは、複数のチームの集合体ということで、チームそれぞれで文化の違いのようなものもあったと思います。チームをまとめるために何かされたことはありますか?
- 田中
プランナーはゲームが共通言語になるので、『EQ』をプレイすることで「そういうゲームか」と理解が進んだ部分もあると思います。グラフィックの人はどちらかというと、PS2でオープンワールドのような世界をどうやって作っていくかという部分に頭がいっぱいだったような気がしますね。
松井さんもチームの一員として立ち回りに気を使った部分はありますか?
- 松井
大人数になるので、デザインやシナリオ、イベントなども含めて、決めるところはみんなでキッチリと決めて、それ以外はお互い自由にやろうといった約束で進めていましたね。そのため、どんなものが出来上がってくるのかぜんぜんわからなかったり、作りかたの文化が違ったりするところは、しばらく慣れませんでした。ただ、バトル部分に関しては、よほどひどいことにならない限り好きにやらせてもらっていたので、ある意味で自分がやりやすいようにやっていればよく、そこはあまり困りませんでしたね。