松井プロデューサーが、『ファイナルファンタジーXI』(以下、『FFXI』)とゆかりのある人物と対談を行う“プロデューサーセッション -WE DISCUSS VANA’DIEL-”。第9回の対談相手は、スクウェア・エニックス 代表取締役社長の松田洋祐さん。『FFXI』の発売当時、経理財務のトップだった松田社長は『FFXI』のプロジェクトをどのように見ていたのだろうか。このパート1では、松田社長がゲーム業界に身を置くことになった経緯についてお話しいただいた。
スクウェア・エニックス 代表取締役社長。公認会計士としてのキャリアを持ち、1998年にスクウェア(当時)に入社した後は、おもに同社の会計や財務などの業務を担当。その後、2013年にスクウェア・エニックスおよびスクウェア・エニックス・ホールディングスの代表取締役社長に就任。
ビジネスとしてのスケールの大きさに惹かれてゲーム業界へ
- 松井
いよいよ松田社長との対談となりました。こういう機会はそうそうないので、ふつうのインタビューでは話題になりにくい、ゲームの話をできればと思っています。
- 松田
いやいや、ビジネスの話でいいですよ(笑)。
それでは、せっかくですので松田社長のゲームの原体験からお聞かせください。
- 松田
うちの親父は新しい物好きで、最先端の家電機器やガジェットを買ってくることが多かったんです。たとえば、登場したばかりの巨大なビデオデッキとかですね。そんな親父がテレビに接続して遊ぶタイプのピンポンゲームを買ってきて、それが私にとって最初のゲームとの出会いでした。当時はまだ小学生でしたが、近所や同級生でほかに持っている人はいなくて、皆で夢中になって遊びましたね。
- 松井
社長が小学生のころと言ったら1970年代ですか。ファミコンが登場するよりもずっと前ですね。そのあとに触れたのはファミコンですか?
- 松田
いや、そのあとにゲームにのめり込んだのは、『スペースインベーダー』ブーム(※)のころです。私の生まれは富山県の田舎なもので、地元にはいわゆるインベーダーハウスやゲームセンターのような立派なものはなかったのですが、国道沿いに小さなドライブインがあって、そこに『スペースインベーダー』の筐体が置いてあったんですよ。それはもう、友だちといっしょに足繁く通いましたね。お袋には、「『スペースインベーダー』を遊ぶと不良になるからダメ!」と釘を刺されていたなぁ(苦笑)。
※1978年に稼働開始したタイトーのアーケードゲーム『スペースインベーダー』のブームのこと。同作は日本全国の喫茶店などに設置されて大ブームを巻き起こし、“インベーダーハウス”と呼ばれる『スペースインベーダー』のみのゲームセンターも登場した。
当時はアーケードゲームの黎明期だったこともあり、世間的には“ゲームセンター=不良の溜まり場”のイメージが強かったですよね。クレーンゲームやプリントシール機の流行などで少しずつ変わっていきましたが。
- 松田
そんな感じで、親にも内緒でゲームを遊んでいたわけですが、じつはファミコンはほとんど触っていないんです。1986年に『ドラゴンクエスト』が登場するなど、ファミコンブームが到来していたのはニュースを見て知っていましたが、そのころの私は大学を卒業間近で、就職活動で忙しかった(※)。就職後は仕事が忙しくて、ゲームとはしばらく疎遠になっていました。
※松田社長は東京大学を卒業後、三井生命保険(当時。現在は大樹生命保険)に入社。 そこから松田社長は1998年にスクウェアに入社することになります。これは、どういった経緯だったのでしょうか?
- 松田
当時の私は、会社から独立して公認会計士へと職を変えたのですが、その仕事を通じて“エンターテインメントビジネス”に興味を持ちました。あのころのエンターテインメント業界は、数多くの企業が多種多様なビジネスを打ち出していたんですよ。当時としてはビジネスの規模も大きく、刺激的かつ先進的で、自分としても「より深く関わりたい」と思うようになりました。
- 松井
数あるエンターテインメントの中で、ゲーム業界に興味を持たれた理由はあったのですか?
- 松田
理由はふたつあって、ひとつはゲーム業界自体の歴史が浅く、それだけに伸び代を感じられたことです。そしてもうひとつの理由は、ビジネスの規模が大きく、きっとやり応えがあるだろうなと直感的に思いました。そうしてゲーム会社を探していたところ、武市さん(武市智行氏。元スクウェア社長)と知り合い、彼に誘われる形でスクウェアに入社しました。