『ファイナルファンタジーXI』(以下、『FFXI』)の20周年を記念して2022年5月8日にYouTubeで配信された特別番組『WE ARE VANA'DIEL』。番組内では“WE GREW VANA’DIEL”と題し、『FFXI』の開発に携わった方や、他社クリエイターも含めた関係者のさまざまな証言が映像等で公開された。しかし、それらは取材内容のほんの一部にすぎない。ここでは、関係者それぞれが語る“『FFXI』20年の軌跡”を、改めてインタビュー形式でお届けしていこう。
その一連のインタビューの最後となる第8回は、北米版『FFXI』において英訳を担当していた、ローカライズチームのマイケル・クリストファー・コージ・フォックスさん。アメリカ人でありながら幼少期のころから日本が大好きだったマイケルさんは、どのような経緯で『FFXI』に関わり、ローカライズ担当の視点からどのように『FFXI』の20年を見つめてきたのか。まずパート1では、マイケルさんが日本に来ることになったきっかけ、そして当時のスクウェアに入るまでの経緯について語っていただいた。
(Michael Christopher Koji Fox)
スクウェア・エニックス ローカライズ部 シニアトランスレーター。アメリカ合衆国オレゴン州出身。日本の北海道教育大学で教員免許を取得し、中学校の英語教師となる。その後、2003年4月にスクウェア(当時)へ入社し、ローカライズチームに参加。『FFXI』のシナリオテキストやアイテム名などの英語翻訳を手掛ける。現在(2023年)は『FFXVI』のローカライズディレクターを担当。また、『FFXI』のスタッフによるバンド“THE STAR ONIONS”ではドラマーとして活躍したほか、『FFXIV』のオフィシャルバンド“THE PRIMALS”ではボーカルやラップを担当している。
ゲームが大好きだったことをきっかけに日本語を勉強
まず、マイケルさんが日本に興味を持つようになったきっかけについて教えてください。
- マイケル
自分はアメリカのオレゴン州出身なのですが、1980年代に『オレゴンから愛』(※)という日本のテレビドラマがあり、それをアメリカで観ていました。たぶんオレゴンが題材だったので、地元のテレビ局で放送していたのだと思います。そしてそのドラマでは、CMに入るときに視覚効果として画面全体が真っ白になるのですが、それを見て「なにこれ? なんで白なの!?」と衝撃を受けたのです。
※『オレゴンから愛』は1984年10~12月に放送されたフジテレビの連続テレビドラマ。実際にアメリカ・オレゴン州で長期間のロケを行い撮影された。 ドラマの内容がよかった、ということではなく、ホワイトアウトに感銘を受けたのですか?(笑)
- マイケル
そうです。それまで見ていたアメリカの番組は、覚えている限りすべてブラックアウトしていたので、よほど新鮮に映ったのでしょうね。ドラマの内容はまったく覚えていないのですが、そのことだけはいまだに覚えています。それはおそらく10歳くらいのときで、なぜか「日本はすごい!」と思いました。
それが初めて触れた日本のコンテンツだったと。
- マイケル
日本のものだとわかったうえで触れたのは、『オレゴンから愛』が初めてだったと思います。それ以前にも『マッハGoGoGo』(※)や戦隊モノの番組は見ていましたが、日本のコンテンツだとは認識していなかったんです。
※1967年4月から放送された、スポーツカーレースをテーマとしたテレビアニメ。タツノコプロ制作。アメリカでは『Speed Racer』というタイトルで放送され、人気を博した。 ゲームについては、最初に遊んだタイトルは何だったのでしょうか?
- マイケル
いちばん最初にプレイしたゲーム機は“Atari”(※)で、小学校の高学年くらいのころでした。そして、小学6年生のときにアメリカ版のファミコンである“NES”(※)が発売され、それをサンタクロースからクリスマスのプレゼントにもらいました。“アクションセット”というメッセージがあって、『ダックハント』と『スーパーマリオブラザーズ』のソフトが付いていたのを覚えています。そこからはどんどんゲームにハマってしまいましたね。自分のお小遣いでもゲームを買いましたし、“SNES”(※)ももちろん買いました。
※Atariはアメリカのアタリ社が開発した、“Video Computer System(Atari 2600)”やAtari 5200などの家庭用ゲーム機シリーズ。
※NESはNintendo Entertainment System(ニンテンドー・エンターテインメント・システム)の略で、1985年に北米(1986年にヨーロッパ、1987年にオーストラリア)で発売された、海外版のファミリーコンピュータ。
※SNESはSuper Nintendo Entertainment System(スーパー・ニンテンドー・エンターテインメント・システム)の略で、海外版のスーパーファミコン。1991年に北米で発売(その後1993年にかけて各国で発売)された。 ゲームが好きだったことは、その後の進路にも影響を与えたのでしょうか。
- マイケル
はい。高校に入り、自分が将来的にどの仕事に就くかを考えたとき、これまでずっとゲームをプレイしてきましたし、ゲームが大好きだったので、「ゲームの仕事がしたい」と思うようになりました。当時の高校にはプログラミングの授業があって、そこでBASIC言語に触れる機会があったのも影響しています。そしてそんなある日、プログラミングの授業で「4人のグループでゲームをひとつ作りましょう」という課題が出されて、私のグループでは“ラスベガスに行くゲーム”を作ることになるんです。
なかなか本格的な内容ですね。
- マイケル
実際の制作では、ほかの3人がルーレット、ブラックジャック、ポーカーをそれぞれ作ることになりました。そして私はというと、“お金がなくなったらプレイヤーは盗みを働くことになり、成功すればゲームを続行可能、失敗すると警察に捕まってゲームオーバー”という設定のもと、スペースキーをタイミングよく押せるかどうかで成否を判定するゲームを作りました。グラフィックもちゃんと作り込んで、自分としては「これは“A”判定がもらえるな」と思って提出したのですが……結果は“B-”という評価でした。それで、「自分はプログラムに向いていないんだな」と思ってしまったんです。当時は「ゲーム業界に入るにはプログラムしかない」と思っていたので、そこでゲーム業界への就職はいったん断念してしまいました。
プランナーのような専門職もまだなく、プログラマーが何でもやっていた時代ですね。そこから、どういった経緯で日本に来ることになったのでしょう?
- マイケル
ゲーム以外に興味があったのが、“言語”の勉強でした。まず、中学校では3年間フランス語を勉強していて、高校1年生でもフランス語を勉強するために隣の大学まで通っていたほどでした。ところがつぎの年は、その大学からフランス語の授業がなくなってしまったのです。だけど勉強は続けたくて、「隣の隣のもっと大きな大学にフランス語の授業を受けに行きたい」と父親に言ったのですが、授業料が高いのでダメだと。そこでつぎに興味が湧いたのが……。
日本語だったわけですね。
- マイケル
そうです。そもそもファミコンは日本が発祥ですし、たくさんのゲームが日本で生まれていました。ですから、日本語を覚えればいち早く日本のゲームを遊べて、まわりのみんなに自慢できると思ったんです。
実際にどのようなゲームをプレイされたのでしょう?
- マイケル
当時は、輸入ショップに置いてある雑誌に、海外発送に対応している日本の販売店の情報が載っていて、そこに手紙と小切手を送ると数カ月後にゲームが届く、という調達手段があったんです。それで手に入れたゲームのひとつが『ゼルダの伝説 時のオカリナ』(※)でした。勇んでプレイを始めたのですが、日本語がわからないとつぎにどこにいけばいいのかさえわからない。そこから「『時のオカリナ』をクリアしたい!」という強いモチベーションが生まれ、一生懸命日本語を勉強する原動力になったと思います。ゲームきっかけで日本語を学んだ弊害というわけではないのですが、知識がゲーム用語に偏ってしまい、簡単な漢字すら書けないのに“斧”はなぜか書ける、なんてことにもなりました(笑)。
※1998年に発売されたNINTENDO 64用のアクションアドベンチャーゲーム。『ゼルダの伝説』シリーズ初の3D作品として、数々の斬新な要素が盛り込まれていた。 ちなみに、日本語の勉強を始めたとき、「難しい!」と思いませんでしたか?
- マイケル
漢字が難しくて勉強をやめてしまう人も多いとは思いますが、私は言語の勉強自体が好きなので、楽しみながら勉強できたと思います。
教職に興味を持ち、日本で英語教師になることを決意
マイケルさんが初めて日本を訪れたのはいつですか?
- マイケル
高校を卒業したとき、父親が海外旅行をプレゼントしてくれるというので、日本に行くことにしました。アメリカは6月に学校が終わって9月から新たな学年が始まるので、その夏のあいだに交換留学のような形で、埼玉県吉川市、富山県入善町、岐阜県関ケ原町、大分県日出町の4カ所を、1カ月くらいかけてホームステイして回りました。
ずいぶんといろいろなところに行きましたね。
- マイケル
それぞれ、現地の中学校の先生が主導となって、日本の中学生と交流をしました。そこで、その先生たちが英語を教えているのを見て教職に興味を持ち、「自分にもできるんじゃないか?」と考えて、日本で教師になることを決心したのです。アメリカ人としてはALT(Assistant Language Teacher。日本で補助教員として勤める外国語指導助手)になるという選択肢もあったかもしれませんが、それよりは「日本で本格的な教師になって生徒に教えたい」という思いがありました。ですが、まわりには日本人以外で日本の教師になったという例があまりなく、どうすればいいのかわからない。でも「オレはやるぞ!」と決め、大学に通いながら日本語の勉強も続けていました。そして、2年ほどでアメリカの大学をやめて長崎へ行き、まずは日本の大学に入るための“センター試験(当時)”の勉強を始めたのです。
現在は“大学入学共通テスト”と呼ばれている、大学へ入学するための1次試験ですね。
- マイケル
とはいえ、日本に来てから半年ほどしか勉強していないので、最初は落ちるだろうと思っていました。なにしろ問題は全部日本語で書かれていますし、世界史の内容もアメリカと日本では勉強する範囲がまったく違う。たとえば、ヨーロッパの歴史はアメリカでも習うのですが、中国の歴史はあまり習わないのです。でも、日本では世界史の半分くらいが中国の歴史ですよね。当たり前ですが、漢字だらけですし(笑)。ですから、「今回は落ちてもしかたないとして、1年間しっかり勉強してリトライしよう」と思っていたのですが……受かってしまいました。世界史、数I、英語の3教科があって、英語はたぶん満点だったと思うので、英語のおかげでギリギリ大丈夫だったのだと思います。
マイケルさんにとっては母国語ですものね。
- マイケル
ただ、センター試験に合格しても、つぎは大学入試があります。こちらは試験だけでなく論文もあるし、面接もあるし、そもそもセンター試験に合格できるとは思っていなかったので、あまり準備ができていませんでした。でも……大学にも合格してしまったんです。
努力された結果だと思いますよ。
- マイケル
結果、北海道教育大学に入って4年間勉強し、教員免許を取りました。そして、教員採用試験を受けるわけですが、こちらも倍率はメチャメチャ高いし、「日本人でもなかなか合格できないのに、オレが受かるわけがない」と思っていたのですが……またしても合格で(笑)。しかも、北海道でアメリカ人が教員採用試験に合格したのは、自分が初めてだったようです。その後は函館の中学校に赴任して、副担任を2年くらいして、3年目には担任にもなりました。家庭訪問をしたときなどは、「外国人が来た!」とみんなに驚かれました(笑)。
ちなみに、いまではもう日本語がペラペラなマイケルさんですが、日本に来たタイミングでの日本語力はどの程度だったのでしょう?
- マイケル
日本に来る前もある程度は話せましたし、漢字も大好きだったので読み書きもできました。ただ、日常で日本語を使ったことがあまりなくて……。アメリカにも日本人の友だちはたくさんいましたが、みんな“英語を勉強しに来ている日本人”なので、あまり日本語の練習にはならなかったんです。
実際に日常生活の中で日本語を使い始めたのは、日本に来てからというわけですね。
- マイケル
そうですね。ちなみに北海道教育大学には全道で5つくらい分校があって、自分はその中の函館分校に入学したのですが、そこを選んだ理由は、“日本語しかない環境に身を置きたかったから”でした。都心だと外国人がいっぱいいるし、英語で受け答えしてくれる施設やお店も珍しくありません。また、北海道の中でも、たとえば札幌だと歓楽街にばかりに行ってぜんぜん勉強しなくなりそうなので、もう少し地方がいいなと(笑)。そこで函館を選んだのですが、実際に大学に通っていたあいだはほかの外国人と触れ合う機会がほとんどなく、4年間“日本語漬け”でしたね。さらに、先生になってからもまわりは日本人ばかりなので、授業以外で英語を使うことがなく、“日常で英語を使わない7年間”を過ごしました。そのおかげで、日本語はかなり上達したと思います。
教師としての担当はやはり英語だったのですね。
- マイケル
英語です。ほかにはバスケットボール部の顧問もしていました。
思春期の生徒が相手だけに、中学校の担任はたいへんだったのではないですか?
- マイケル
ええ。しかも、中学2年生の担任だったんですよ。“初々しい1年生”ではなく、“高校入試の勉強で忙しい3年生”でもなく、“いちばん多感な2年生”。でも、教えることが大好きだったのですごく楽しかったですね。一方で、ストレスもたくさんありました。
具体的にはどのようなことでしょう?
- マイケル
学校の授業には文部科学省が決めたルールがあって、日本の英語教育に違和感があったとしても、そのルール通りに教えないといけません。ルールを変えたいなら文部科学省に入るしかなく、そうなったら教師ではいられない。違和感を抱えつつも、先生は続けたかった。でも、バスケットボール部の顧問もやりつつ、先生たちとのいざこざに悩んだりと心の中の葛藤がいろいろあり……。そんなストレスの中で、家に帰ったときの癒しが、子どものころからずっと好きだったゲームでした。大人になってもゲームは変わらず楽しかったですね。
当選した『FFXI』のβテストを何が何でもプレイしたかった
ゲームが当時のマイケルさんのメンタルを救ってくれていたと。
- マイケル
その当時プレイしていたのは『FFX』か『FFX-2』だったと思います。ただ、ハイファンタジーが好きな自分には、世界観的にちょっと物足りない部分がありました。そんなとき「次回作の『FFXI』はどんな感じなんだろう?」と情報を見てみると、ハイファンタジーな世界観のMMO(多人数同時参加型オンライン)RPGということで、すごくワクワクしたのを覚えています。それまで私はオンラインゲームをプレイしたことがなかったのですが、みんなといっしょにプレイするのはすごく楽しいだろうなと。「私は日本にいるアメリカ人だけれど、将来的には日本にいながら全世界の人とプレイできるかもしれない」と考え始めたら、夢がぶわーっと膨らんでいきました。
まさに、当時の多くのゲームファンと同じ期待を、『FFXI』に抱いたのですね。
- マイケル
ええ。ですから、「これは何が何でもプレイしたい」と思い、さっそくβテストに応募しました。とは言っても、「どうせ倍率は高いだろうし、当たらないだろうな」と思っていて、プレイに必要と書いてあったPlayStation BB Unit(以下、BBユニット)は買っていなかったんです。そうしたらβテストに当選してしまって、あの金属のバインダーが黒い立派なボックスに入って届きました。
またしても受かってしまったと(笑)。
- マイケル
βテストに当選したからにはすぐプレイしたかったのですが、なにせBBユニットがない。急いでソニー・コンピュータエンタテインメント(当時)のWebサイトを見ても“SOLD OUT”でした。その後、いろいろと手を尽くして入手することができ、さらに当時の自宅のインターネット回線はダイヤルアップ接続だったので、そこからなんとかADSLに切り替えて、ようやくプレイできる環境が整いました。そうして、やっとの思いでインストールした『FFXI』ですが、プレイを始めたら……案の定ハマってしまいましたね。
当時はプレイを始めるまでのハードルがかなり高かったですよね。そこからそのまま製品版もプレイされたのでしょうか?
- マイケル
もちろん、製品版の『FFXI』も毎晩のようにプレイしていました。そしてちょうどそのころ、リアルのほうでいろいろあって教師をやめることになり、「つぎの仕事、どうしようかな……」と思っていたときに、スクウェア(当時)のローカライズ部門の人材募集をたまたま見つけたのです。その時点ではローカライズの知識などまったくありませんでしたが、「英語はできるし、日本の大学を出て教師の経験もあるので、翻訳の仕事なら自分にもできるかもしれない」と思いました。スクウェアのゲームも好きでしたし、軽い気持ちで応募してみようと。
“人生の転換点”という感じがしますね。
- マイケル
応募に際してはローカライズの課題があり、内容は「過去の『FF』作品のキャラクターを使って1000文字程度の物語を書いてください」というものでした。そのとき自分は、“『FFVI』のシャドウが原宿に飛ばされ、ガングロギャルをアマゾネスと勘違いする”という話を書いた記憶があります。こんな話では受からないだろうなと思っていましたが……受かりました(笑)。
この流れ、本当に多いですね(笑)。
- マイケル
その後、当時、目黒にあったスクウェアの本社オフィスに呼ばれ、さらに試験と面接を受けることになりました。そこで初めて翻訳という作業をした形になります。試験は『パラサイト・イヴ』や過去の『FF』作品での会話やアイテムの説明、ゲーム用語などを翻訳するというもので、辞書で調べながら翻訳したことを覚えています。いまではそういった試験は全部リモートでかつ、パソコンを使って行うのですが、当時はすべて手書きでした。
面接ではどのようなことを聞かれたのでしょう?
- マイケル
「いまはどんなゲームをプレイしていますか?」と聞かれ、「『FFXI』!」と即答しました。じつは、その募集ではちょうど『FFXI』の翻訳者を探していたらしく、自分は『FFXI』をプレイしているし、日本に長く住んでいて、日本の大学も出ていて、日本語も英語もできる。「こいつだったら即戦力になるだろう」と判断されたのではないでしょうか。しかも、その場の面接官のひとりは、『FFXI』の翻訳に関するリーダーだったのです。面接ではとにかく『FFXI』が好きなことをアピールしていたので、彼らも「ちょうどいい」と思ったのかもしれません。
※パート2は1月18日公開予定