松井プロデューサーが、『ファイナルファンタジーXI』(以下、『FFXI』)とゆかりのある人物と対談を行う“プロデューサーセッション -WE DISCUSS VANA’DIEL-”。今回はその特別編として、『FFXI』の藤戸洋司ディレクターを交えた座談会をお届けする。そのお相手は、日本のオンラインRPGの先駆者である『ファンタシースターオンライン』(以下、『PSO』)シリーズを手掛けてきた、節政暁生(せつまさあきお)さんと安倉剛司(あぐらつよし)さん。まさに家庭用ゲーム機におけるオンラインRPG開発の黎明期を体験した4人が、当時の苦労や開発秘話などを計4回にわたって語り合う。まず今回のパート1では、それぞれのゲーム開発者としての来歴からうかがった。
株式会社セガ『ファンタシースターオンライン2 』(以下、『PSO2』)ネットワークディレクター。ソニックチームで『NiGHTS into dreams...(ナイツ)』(以下、NiGHTS)や『バーニングレンジャー』、『ソニックアドベンチャー』などの作品にプログラマーとして携わる。『PSO』ではメインプログラマーとして参加。また『ファンタシースターユニバース』(以下、『PSU』)ではネットワーク全般を担当し、以後同シリーズすべてにかかわっている。
株式会社セガ『PSO2 ニュージェネシス』サーバーパートプログラムリーダー。『ぐるぐる温泉2』、『サクラ大戦オンライン』、『ぐるぐる温泉3』など、ドリームキャストで発売された複数のオンラインゲームに加え、『エターナルアルカディア レジェンド』の開発にも携わる。『PSU』より『PSO』シリーズに参加し、以後節政氏とともに同シリーズを支えてきた。じつは、βテスト時代からの『FFXI』プレイヤーでもある。
2000年にセガから発売されたドリームキャスト用アクションRPG。家庭用ゲーム機初の3DオンラインRPGとして、世界中の人々とのオンラインプレイを実現させた。現在はシリーズ最新作『PSO2 ニュージェネシス』がサービス中。
ハードの限界を引き出すという使命感
今回は、『PSO』と『FFXI』の開発者どうしが語り合うという、これまでにない座談会になるわけですが、最初に節政さんと安倉さんのセガ入社の経緯や、手掛けられた作品などをお聞かせください。まずは節政さんからお願いします。
- 節政
自分がセガ・エンタープライゼス(当時。現セガ)に入社したのが1993年で、ちょうど『バーチャファイター』(※)がヒットした時期になります。セガは第1志望だったのですが、受けてみたら意外にすんなり入社できた感じでした。
※1993年にアーケードでリリースされた、世界初の3D対戦格闘ゲーム。 - 松井
セガに入社される以前も、プログラムなどはされていたのでしょうか?
- 節政
はい。以前から個人的にゲームを作っていたので、その流れでセガを志望しました。ただ、当時はゲームを作りたくてセガに入社した人の中でも、自分のように入社前からプログラミングを経験していた人もいれば、まったくそういった経験がない人もいて、両者が混在していました。
- 松井
節政さんが最初に手掛けたタイトルはどちらになりますか?
- 節政
最初にかかわったのは、メガドライブの『ベア・ナックルⅢ』です。その後、スーパー32X(※)のタイトルに何本か携わり、『メタルヘッド』や『バーチャファイター』のスーパー32X版などを作っていました。その後はセガサターンの『NiGHTS』(※)などを手掛けました。
※スーパー32X は、16ビット機であるメガドライブを32ビット機にパワーアップする周辺機器。特殊なチップを必要とせずにポリゴンによる3D表現が可能となる。
※『NiGHTS into dreams...(ナイツ)』は1996年にセガサターン用ソフトとして発売されたアクションゲーム。“夢”をテーマにした世界観や、3D空間を自由に飛び回るゲーム性は、現在でも高く評価されている。
- 松井
『NiGHTS』の3D表現は衝撃的でしたね。
- 節政
ポリゴンを扱ったゲームの開発は、スーパー32X版『バーチャファイター』が初めてだったのですが、そちらではどちらかというと3Dの部分よりも、システムまわりをメインに担当していました。ですから、本格的に3D作品に取り組んだのは『NiGHTS』からになります。あのころは自分も含め、連日徹夜で働いていたような感じでしたね。その後は『バーニングレンジャー』、『ソニックアドベンチャー』などを、ソニックチームの一員として開発しました。
では、つぎに安倉さんの入社経緯や、手掛けられた作品をお聞かせください。
- 安倉
私はもともと『ファイナルファンタジー』(以下、『FF』)シリーズが大好きで、当初はスクウェア(当時)への入社を希望していました。しかし、学生のときに就職活動を始めるのが遅かったので、もうスクウェアでは新卒の募集をしていなかったのです……。
なんと! そんな経緯が。
- 安倉
そこで、つぎの志望先を考えたとき、自分は野球ゲームも好きで、とくにセガサターンの『プロ野球チームもつくろう!』が大好きだったため、「セガを受けてみよう」と思い立ったのが入社のきっかけでした。セガ入社後に初めてかかわったタイトルは、ドリームキャストの『ぐるぐる温泉2』です。その後『サクラ大戦オンライン』、『ぐるぐる温泉3』と、続けてオンラインゲームを開発しました。また『ぐるぐる温泉3』に収録されていた『ナポレオン』を携帯電話アプリとして移植した後は、ゲームキューブで発売されたRPG『エターナルアルカディア レジェンド』も担当したりしています。
- 松井
立て続けにオンラインゲームにかかわった後、一時的にオンライン系からは離れていたということですか。
- 安倉
はい。しかしその後、「またオンラインゲームを作りたいな」と思いまして、『PSO』シリーズのチームに参加させてもらいました。シリーズで最初にかかわったタイトルは『PSU』になります。
そこから節政さんと安倉さんのおふたりは、同じチームとしてやってきたわけですね。
- 節政
はい。ずっと長いこといっしょにやっています。
- 安倉
その中でも節政は『PSO』シリーズのメインタイトルを中心に手掛けていて、自分は『ファンタシースターZERO』や『ファンタシースターポータブル』など、派生となるタイトルを担当することが多かったですね。
- 松井
安倉さんは『FF』シリーズが好きとのことですが、原体験となるのは何作目でしょうか?
- 安倉
初めてプレイしたタイトルは『FFIII』です。その後『FFI』、『FFII』とさかのぼってプレイし、それ以降は最新作が発売されたタイミングでプレイしています。自分としては『FFIV』、『FFV』、『FFVI』あたりの、スーパーファミコンで発売されたタイトルがいちばん好きですね。
- 松井
そうすると、安倉さんと初めて出会ったのは“かいはつしつ”(※)だったかもしれませんね。
※『FFIV』の隠し要素のひとつ。ドワーフの城から入ることができ、内部では“さかぐち ひろのぶ”など、開発者の名前のキャラクターと会話可能だった。また、バトルとしてエンカウントする開発者もおり(実際の戦闘にはならず会話のみで逃亡)、その中には“まつい あきひこ”もいる。 - 安倉
確かに、そうかもしれません(笑)。
節政さんと安倉さんに続き、藤戸さんも“WE ARE VANA’DIEL”のインタビューでは初登場になりますので、あらためて当時のスクウェアに入社されるまでの経緯をお聞かせください。
- 藤戸
自分が最初に入社したゲームメーカーはコナミ(当時)になります。その当時はまだ自分の代表作と呼べるようなタイトルはなくて、ひたすら勉強をしていました。最初はアーケードゲームの開発部門でC言語を覚えて、その後にプレイステーション(以下、PS)タイトルの開発部門に異動しています。その後、スクウェア(当時)に入社したのは1995年のことで、ここでは最初に『アインハンダー』(※)の開発にかかわっています。
※1997年にスクウェア(当時)から発売された横スクロールシューティングゲーム。 藤戸さんのゲーム開発者としてのキャリアは、アーケードゲームからスタートしたのですね。
- 藤戸
そうです。異動先のコナミのPSタイトル開発部門でも、自分が所属していたチームのリーダーが『グラディウス』シリーズのボス“テトラン”を作った人で、いわゆる“触手”の表現が得意な方でした。ちなみに、触手独特の動きには、角度を決めるためのサイン、コサインの値が重要なのですが、その方が開発の最初にいつもされることが、ご自身で使われていたサイン・コサインテーブルをソースに移植することでした。
- 節政
昔のハードはだいたいそうでしたよね。サイン・コサインテーブルを作るところから始まっていました。
松井さんや藤戸さんは、メガドライブやセガサターン、ドリームキャストなどのハードを展開していた時代のセガに対して、どのような印象を持っていましたか?
- 松井
そうですね……合っているかどうかわかりませんが、セガさんに対しては「プログラマーが強い会社だな」という印象を持っていました。自分はプランナーとしてスクウェアに入社しましたが、セガさんはすごいプログラマーの方がたくさんいて、それを支える形でプランナーがいるということを聞いた記憶があります。
- 藤戸
セガさんの作品は、初めはうまく操作できなくても、慣れるとどんどんトリッキーな動きができるようになる……そういった点がすごくわかりやすいゲームの作りかたをされていて、まさに“ゲームとはこういうものだ”ということを見せてくれる会社だと思っていました。当時はアーケードゲームから家庭用ゲーム機に移植されるタイトルが多かったと思いますが、それらの再現力もすごいなと思っていて、自分のまわりでもみんなセガさんを神聖視していましたね。
- 松井
それらの技術力の高さは、やはり当時のセガさんがアーケードゲームを多く手掛けていたり、メガドライブやセガサターンなどのハードを作られていたりしたことが、理由として大きいのでしょうか?
- 節政
そうですね。当時はハードメーカーでもあったため、やはり“自社ハードの性能を引き出すゲームを作らなければいけない”という使命感がありました。その結果、技術主導になる作品が多かったのではないかと思います。
- 松井
スクウェアでもスーパーファミコンの『FFVI』や『クロノトリガー』などの演出は、ハードの性能をしゃぶり尽くすくらいの人たちがプログラムを担当していました。安倉さんはスーパーファミコン時代の『FF』シリーズがお好きだとのことですが、きっと当時のスタッフの熱量が伝わっていたのではないかと思います。
当時はハードメーカーだけでなく、ソフトウェアメーカーもプラットフォームのハードウェアをとことん研究し尽くす、といった印象がありました。
- 松井
あの当時のプログラマーさんは、そういった気質がありました。コンパイラの掃き出ししたコードを逆アセンブル(※)して、不要なコードを削って高速化したりしていたようです。
※コンパイラは人間が理解しやすいプログラミング言語を機械語のコードなどに変換するプログラム。それとは反対に、逆アセンブルは機械語のコードを人間が理解しやすいアセンブラ言語(ソースコード)に変換すること。 - 節政
ああ、自分も似たようなことをやっていました。セガサターンではもともと半透明の表現ができなかったのですが、工夫して無理やり『バーニングレンジャー』の炎の表現を作り出したりしていましたね。
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