松井プロデューサーが『ファイナルファンタジーXI』(以下、『FFXI』)とゆかりのある人物と対談を行うスペシャル企画“プロデューサーセッション -WE DISCUSS VANA’DIEL-”。第6回の対談相手は、『サガ』シリーズの総合ディレクターであり、旧スクウェア時代から開発の第一線で活躍し続けている河津秋敏さん。松井プロデューサーの大学の先輩であり、ゲーム開発者としても先輩にあたる河津さんの視点から見た『FFXI』とは? まずはスクウェア(当時)への入社経緯のエピソードを皮切りに、計4回のセッションをお届けしていこう。
スクウェア・エニックス 『サガ』シリーズ総合ディレクター。『魔界塔士サ・ガ』や『ロマンシング サ・ガ』(以下、『ロマサガ』)を筆頭に、同シリーズのシナリオ、ディレクション、プロデュースなどを担当。『FF』シリーズのナンバリングタイトルについては、1作目と『FFII』のゲームデザイン、『FFXII』のエグゼクティブプロデューサーを務めている。松井プロデューサーにとっては、東京工業大学に在籍していたときの先輩でもある。
たまたま見た求人情報が運命の扉となる
- 松井
ちゃんと確認したことがなかったので、この機会にお聞きしたいのですが、河津さんは1作目の『ファイナルファンタジー』(以下、『FF』)のときからスクウェア(当時)にいましたよね?
- 河津
1作目のときからいますね。
- 松井
となると、もう入社して約35年になるわけですが、改めて当時のスクウェアに入社することになった経緯をお聞きしてもいいですか?
- 河津
経緯と言われても、たいした理由はないですよ。大学を卒業できなくて中退しちゃったのだけれど、なんとかして働き口を探そうと思って求人情報誌を見ていたら、たまたまスクウェアの求人情報が載っていただけです。そのときはゲーム会社の求人を探していましたが、当時のゲーム会社は中途採用がほとんどない状況で。ナムコ(当時)さんもセガさんも、大学や専門学校の新卒の求人のみという感じでした。アルバイトも探したけれど、それすらもほとんどなかったですね。
- 松井
僕が就職活動をしていたときも、そんな感じでしたよ。
- 河津
そういった状況の中、たまたまスクウェアが求人を出していたのを見つけたのですが、当時は「スクウェアか……どこかで聞いたことがあるな」という程度の認識でした。佐藤元さん(多くのアニメ作品で原画や作画監督などを務めるアニメーター)がイラストを描いている『水晶の龍(ドラゴン)』(※)が発売された直後だったかな。その『水晶の龍』のCMを見たイメージがちょっとだけ頭に残っていたくらいです。それで、スクウェアに問い合わせの電話をしたら「求人はもう締め切りました」と。でも、なぜか「ちょっとお待ちくださいね」と少し待たされた後に「やっぱり履歴書を送ってください」と言われたんですよ。その後、速達で履歴書を送り、数日後に「面接に来てください」と返事がありました。
※スクウェアが1986年に発売したファミリーコンピュータ ディスクシステム用アドベンチャーゲーム。音楽は植松伸夫氏が担当している。 - 松井
電話に聞き耳を立てていた誰かが「待って! 履歴書を送ってもらって」とでも言ったのですかね(笑)。でも、「締め切りました」と言われてそこで話が終わっていたら、河津さんはスクウェアにいなかったのですね。
- 河津
そうかも(笑)。それで、面接に行くと田中さん(田中弘道氏。『FFXI』の初代プロデューサー)がいて、「“Apple II”(※)を持っているそうですが、どんなことをしているのですか?」といったようなことを聞かれました。そんな話をして、最終的に「(入社しても)大丈夫じゃない?」と言ってもらえました。あと、田中さんから「河津くんは彼女はいるの?」なんてことも聞かれたんですよ。「ゲームの開発が始まったら、女の子と出会うタイミングなんてないからね」みたいなことを言っていたかな。ちなみに、いまこんな質問をしたら問題になります(笑)。
※アップルが1977年に発売したパーソナルコンピュータで、モニターやキーボードなどがセットになった初のオールインワンタイプの製品。 - 松井
いまのご時世、面接でプライベートに踏み込むのはご法度ですね。
- 河津
本当に忙しい時期だと、人と会うこともままならないので、重要なアドバイスだと思いますけどね。
- 松井
ちなみに、ゲーム会社の求人を探していたとのことですが、最初からゲーム業界志望だったのですか?
- 河津
そういうわけでもないよ。そのころは、『Beep(ビープ)』(※)という雑誌でライターのアルバイトもしていましたから。じつはそのときに、『キングスナイト』(1986年発売のシューティングゲーム+RPG)や『クルーズチェイサー ブラスティー』(1986年発売のRPG)など、スクウェアのゲームはいくつか見ていたのですが、『水晶の龍』以外すっかり忘れていましたね(笑)。一方で、TRPG(※)の『D&D(ダンジョンズ&ドラゴンズ)』を遊んでいたり、Apple IIでもずっとゲームで遊んでいたりとゲームが好きだったので、機会があればライターの仕事だけでなく、ゲームを作ってみたいという気持ちはあったかな。ただ、「そんな機会はないだろう」と思っていましたけど。そんな矢先にスクウェアの求人を見つけたのですから、本当に偶然ですよね。その偶然がなかったら、『ロマサガ』は生まれていなかったと思います。似たようなゲームを誰かが作ったかもしれませんが。
※日本ソフトバンク(当時)が1984年に創刊した雑誌。当時のゲーム雑誌はパソコンゲームの情報が主体だったが、『Beep』は家庭用ゲームの話題を中心に取り上げた最初のゲーム雑誌だった。※テーブルトークロールプレイングゲームの略。ルールブックに従い、会話によって進行するRPG。いわゆる和製英語で、英語圏ではコンピューターゲームと区別するためにTabletop RPG(テーブルトップRPG)と呼ばれたりもする。 皆さん、何かに導かれるようにスクウェアに入社していますよね。北瀬さん(北瀬佳範氏。『FF』シリーズのブランドマネージャー)もそういうお話(※)をされていましたし、松井さんもそうでした。まるでRPGのように、あらゆるスキルを持った仲間がどんどんスクウェアに集まってくる状況が、とてもおもしろいです。
※“第5回 北瀬佳範 パート1”参照- 松井
ほとんどが“求人情報を見て”という形ではありますけどね(笑)。
少し話題をさかのぼりまして。河津さんにとって松井さんは東京工業大学の後輩にあたるそうですが、在学中はどのような交流があったのでしょうか?
- 松井
“SF研(究会)”というサークルに入っていて、そこでいっしょでした。
- 河津
SFの研究はあまりしていなかったけどね(笑)。一応、読書会や創作会などの活動もあったけれど、ふだんはゲームばかりしていました。とくに我々の世代くらいから、その傾向が強くなっていったんだよね。
- 松井
部室にはボードゲームなどがいっぱい積んでありました。TRPGではゲームマスターをする人が何人かいて、金曜の夜くらいから始まるセッションなどもあって。
- 河津
そういえば、松井くんはなぜ“SF研”に入ってきたの?
- 松井
先輩に誘われたんです。大学の自治関係の説明会で自己紹介をすることになって、「創作系のサークルがあれば入りたい」といったことを話したら“SF研”の先輩から誘われました。
松井さんから見て、当時の河津さんはどういう印象でした?
- 松井
“サークルのボス”のような雰囲気でした。さらに、河津さんの同学年と思しき人たちにもボスクラスの方々がたくさんいましたね。大学に入ったばかりの1年生にとって、4年生ってみんなすごい大人なんですよ。ふだんは働いていて、部室にだけ来るような人もいました。
かたや高校を出たばかりの青年で、かたやもう働いている人もいると。
- 松井
僕も高校くらいからボードゲームで遊んでいたものの、先輩方はやることなすこと“大人な感じ”がして、「すごいところに来ちゃったな」と思っていました。
- 河津
“SF研”では年に1回ほど同人誌を出していたから、「みんな小説を書け」と言われていたけれど、松井くんも “SF研”で小説を書いていた?
- 松井
2回ほど書きましたよ。ぜんぜんSFではなかったですけど(苦笑)。
河津さんは、松井さんが“SF研”に入ってきたときのことは覚えていますか?
- 河津
入ってきたころのことはあまり覚えてないけれど、いっしょにゲームをしたり、TRPGをしたり、麻雀などをしたのは覚えていますね(笑)。
河津氏の言葉「スクウェアはやめてくれ」の真実
前回の北瀬佳範さんとのプロデューサーセッションで、松井さんが河津さんに「スクウェアはやめてくれ」と言われた、と語られていました。その真意を教えてもらえますか?
- 河津
就職の相談をされたときだっけ?
- 松井
はい。「ゲーム業界はどんな感じですか?」と聞いたときに、こんな感じだよという説明をされた後に「でも、やりにくくなるから、スクウェアはやめてね」と言われました。
- 河津
どちらかというと、知っている人間に入ってきてほしくなかったんだよね。自分は田舎の出身なのですが、中学までは地元にいて、高校からは都市部に通い、大学で東京に出てきたという経歴で、環境が変わるたびに“それ以前の自分を知っている人がまわりにいなくなる”という生活をくり返してきました。ですから、スクウェアに入って“新しい河津”として仕事をしているのに、大学時代の自分を知っている人間が入ってくるのはあんまりうれしくなかったんですよ。
- 松井
けっきょくは、そんな河津さんに申し訳ないと思いつつスクウェアに入社しました。先ほど河津さんが語られていましたが、僕が就職活動をしていたときもスクウェア以外に中途採用をしている会社がなかったんですよ。とくに、プランナーは経験者の求人しかなかったですし。ですから、スクウェアの“誰でも歓迎”という求人はありがたかったです。
河津さんが入社した当時のスクウェアはどんな雰囲気でしたか?
- 河津
当時のスクウェアはパソコンゲームの開発がメインの会社で、いまとはぜんぜん違う雰囲気でした。パソコンゲームの会社はプログラマーがすごく強いんですよ。プランナーは本当に数えるほどしかいなかったのに対し、プログラマーは人数も多かったですから。プランナーは、それこそ坂口さん(坂口博信氏。『FF』シリーズの生みの親のひとり)や田中さん、青木さん(青木和彦氏。『FFIII』などのゲームデザインなどを担当)がいたくらいですね。石井くん(石井浩一氏。『FFXI』初代ディレクター)もまだアルバイトでした。当時はプログラマー専用のフロアがあって、プログラマーはプログラマーで固まって作業していたんです。自分は「ここに用はない」といった感じで、足を踏み入れませんでしたけれど。
当時はプログラマーと直接やり取りするような感じではなかったのですか?
- 河津
自分は『FF』チームに入ったのですが、最初に出会ったプログラマーが『ハイウェイスター』などをプログラミングしていたナーシャ(ナーシャ・ジベリ氏。『FF』~『FFIII』のプログラマー)でした。ですから、最初のうちは日本のプログラマーとはあまりやり取りがなかったんです。途中から安達さん(安達景太郎氏。『魔界塔士サ・ガ』のプログラムなどを担当)や吉井くん(吉井清史氏。『FFIII』~『FFVI』のバトルプログラムなどを担当)が入ってきたのですが、ナーシャとはやりかたがぜんぜん違いましたね。もちろん、ナーシャとのやり取りでも仕様書を書いて渡しつつ、彼から説明を求められたときにフォローをしなければならないのですが、英語でのコミュニケーションなのでうまく伝えられなくて……。最終的には「とにかくやってくれ」と言うしかないのですが、ちゃんと伝わっていないから向こうもイライラしているんですよ。ナーシャは「なぜそうするのかはわからないけど、仕様書の通りに作るよ。でも、望むような結果になるかはわからないから君がきちんとチェックするんだ」というやり取りになりました。
- 松井
そんなことがあったんですね。
- 河津
そういう理由で、最初はナーシャ用におぼつかない英語で書いた仕様書を作っていたのですが、そのうちナーシャから「バトルはよくわからないから、日本人のプログラマーにやってもらってくれ」と言われて、飛空艇を飛ばすプログラムといった、バトル以外のパートをナーシャが作る感じになっていきました。そうしてバトルのプログラミングは吉井くんの担当になったので、わざわざ英語で仕様書を書く必要はなくなっていたんですよね。吉井くんも半分英語で書いてある仕様書を読んでプログラミングしていたので、お互いムダな労力をかけていたなと(苦笑)。
- 松井
僕が『FFIV』の開発時に参考資料として見ていた仕様書では、チョコボが“Ostrich”(ダチョウ)と書かれていただけでなく、移動系の制御がなぜか英語で書かれていて不思議だったのですが、そういう経緯だったんですね。
- 河津
それは田中さんが作っていたはずだよ。自分が作っていた仕様書はバトル関係のもので、データ構造についてこのビットは防具、このビットは装備のステータス、鎧はふたつ装備できない、といった仕様をナーシャに説明するために英語で書いていました。この書類を吉井くんが解読して作業する、と。
- 松井
田中さんは「覚えがない」と言っていたんですよね。
- 河津
僕もチョコボが“Ostrich”と書かれている仕様書は持っているけれど、もしかしたら説明用に坂口さんがリライトしていたのかもしれないね。
以前、田中さんにお話をうかがっていく中で「河津くんはひどいんだよ。プログラマーが“この仕様はなぜこうなっているのですか?”と聞きに行くと、“君はわからなくていいんだ。言われた通りに組め”と返すような人だから」というようなエピソードを教えてくれたのです。しかし、それは田中さんの脚色と言いますか、その背景には英語によるコミュニケーションの壁があったのですね。
- 河津
いや、昔は相手が日本人だろうとそういうことも言っていたかな(苦笑)。
- 一同
(笑)。
- 松井
そういえば、ゲームの作りかたはどなたに教わったのですか?
- 河津
プランニングに関しては何から何まで田中さんがお手本で、仕様書の書きかたも田中さんが作ったものを盗み見て覚えた感じです。プログラムの先生は安達さんですね。安達さんは仕様から自分で作る人だったので、安達さんの考えかたをベースにして“プログラマーにはこう伝えればいい”というノウハウを勉強させてもらいました。
旧スクウェアの皆さんはすべて“田中門下生”といった感じですね。
- 松井
田中さんがスクウェアのお父さんで、安達さんがお母さん、みたいなイメージがあります(笑)。
- 河津
プログラムはアセンブラ(※)で書かなければいけなかったのですが、当時は教則本なんてなかったんですよ。売っていたとしても、とても高額なものでした。ですから、理論から学ぶというよりも、田中さんに「なぜこうなるのですか?」と聞きに行って、「こうやればうまくいくよ」と教えてもらう感じでしたね。
※正確にはアセンブリ言語で書かれたコードを機械語(マシン語)に変換するプログラムのことだが、言語そのものを指し示すこともある。C言語やJava、PHPといった人間が理解しやすいように設計された高水準言語(高級言語)とは異なり、コンピュータが解釈しやすい低水準言語(低級言語)に属する。 - 松井
その時代の話はよく耳にしていましたが、系統立てて聞いたことはなかったのでとても楽しいです。
そして1990年に松井さんもスクウェアに入社するわけですが、そのときのことを河津さんは覚えていますか?
- 河津
先ほども言ったように、過去の自分を知っている人間が入って来るのがイヤだったので、最初は少し距離を置いていました(笑)。
- 松井
でも、給料日前などにはご飯をご馳走になっていましたね。それで生き延びていたというか(笑)。
- 河津
そういうこともあったね(笑)。しばらくして、チームの増員を検討していたときに松井くんを入れようと思ったんです。同じ大学でしたから、数学の知識があることやデータ作りの基礎的なことを教わっていたのはわかりますし、いっしょにゲームをしていたので専門用語も通じるし、戦力になってくれるだろうと。でも、坂口さんから「『FF』チームに入れる」という話をされて、松井くんは『FF』チームに入ることになったんです。
その後、いっしょに仕事をする機会はありましたか?
- 松井
『ロマンシング サ・ガ2』(以下、『ロマサガ2』)のときはいっしょでしたね。
- 河津
『ロマサガ2』までは機会がなかったですね。そういえば、松井くんを入れようと思ったころに『サガ』チームに入ってきたのが、井上くん(井上信行氏。『ロマサガ』のフィールドマップデザインやエフェクトなどを担当)でした。彼は『サ・ガ2 秘宝伝説』と『ロマサガ』のときにいっしょだったかな。
- 松井
僕が入社したとき、井上さんは『FFIV』チームにいて、“アンチATB(アクティブタイムバトル。※)”派としていっしょにがんばろうと言っていました。
※『FFIV』で導入された戦闘システム。従来のターン制バトルにはなかった、“時間”の概念が取り入れられている。各キャラクターには“素早さ”などのパラメーターをもとに“つぎに行動を起こすまでの待機時間”が設定されており、その時間が過ぎたキャラクターから行動できる。 そんな派閥があったのですか!?
- 松井
派閥というほどではないのですが、やはりコマンドバトルはゆっくり考えてから入力したいと思っていて。ATBはおもしろいですけれど、それが難しいと感じる人もいるでしょうし、そういった議論がウェイトモードの導入につながっていくんですよね。でも、気がついたら井上さんは別のチームに行ってしまいました。
河津さんといっしょに仕事をすることになったときは、どんな心境でしたか?
- 松井
そのころには河津さんがどういうことをされているのかわかっていましたが、『サガ』チームのバトル班にはすでに小泉今日治さん(『ロマサガ2』などのバトルデザインを担当)がいたので、「どうやって力になればいいんだろう……」と悩んだ部分はありました。あとは、たぶん『サガ フロンティア』のときだったと思うのですが、河津さんの企画だとわかっていたので、イベントのためのスクリプトを作るときにすごくマニアックな設計にしてしまったのを覚えています。ふつうのテキストの中に制御コードが紛れ込むような設計にして、いろいろといじれるようにしておいたのですが、それが原因でローカライズの作業がすごくたいへんになってしまって……。河津さんがイベント作りで遊べるように、という目的だったのですが、設計をとがらせすぎても失敗するんだなと学びました。