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プロデューサーセッション -WE DISCUSS VANA’DIEL-
第12回  島田宗毅 パート1

松井プロデューサーが、『ファイナルファンタジーXI』(以下、『FFXI』)とゆかりのある人物と対談を行うスペシャル企画“プロデューサーセッション -WE DISCUSS VANA’DIEL-”。第12回は、2002年のサービス開始から2016年まで『FFXI』のプラットフォームとしてヴァナ・ディールを支え続けたプレイステーション 2(以下、PS2)に注目。その開発に携わったソニー・インタラクティブエンタテインメント(以下、SIE)の島田宗毅(しまだむねき)さんに話を聞いていく。『FFXI』の開発初期段階からPS2のネットワーク部分に関わってきた島田さんは、家庭用ゲーム機で発売される初の本格的MMO(多人数同時参加型オンライン)RPGをどのように見ていたのだろうか? 今回のパート1では、島田さんがどのような経緯でゲーム業界に関わることになったか、そしてPS2発売前後のネットワーク事情について語っていただいた。

島田宗毅

ソニー・インタラクティブエンタテインメント バイスプレジデント。1998年にソニー・コンピュータエンタテインメント(SIEの旧社名。以下SCE)に入社し、PS2や“PlayStation BB Unit”(以下、BBユニット)などの開発に関わる。その後はPSP「プレイステーション・ポータブル」などの携帯ゲーム機や、オンラインサービス“PlayStation Network”(プレイステーションネットワーク。略称PSN)、グローバルのゲームデベロッパーへの技術支援など、幅広い分野の開発に携わっている。北米在住。

3DCGの世界からゲーム業界へ

  • まずは、島田さんのご来歴からおうかがいします。当時のSCEに入社するまでの経緯や、PS2のネットワークまわりに関わることになった経緯などをお聞かせ下さい。

  • 島田

    当初は中途採用のグラフィックスエンジニアとして、1998年にSCEへ入社しました。PS2が発売される2年ほど前で、PS2のプロジェクトとしては開発期間の半分くらいが過ぎた時期だったと思います。その時点でまだPS2の存在自体が未公開で、入社してから8カ月くらい経って一般に発表となりました。その当時は新米のエンジニアでしたので、この時期にいろいろなことを学ばせてもらいました。そして2000年3月にPS2を発売したのち、「PS2はネットワークの方向に舵を取ろう」ということになり、自分の業務もネットワーク方面にシフトしていきました。その後、BBユニットの開発などに携わり、その流れで『FFXI』にも関わっていった……というのが大まかな経緯になります。

  • その後はPS2以降のさまざまなプロジェクトの開発に関わり、現在はアメリカにお住まいとのことですが、渡米されたのはいつごろでしょうか?

  • 島田

    渡米したのは2016年です。以降、プレイステーションのサードパーティーに対する技術支援のグローバルな責任者に就いています。

  • 松井

    中途採用でSCEに入社されたとのことですが、それ以前はどのようなお仕事をされていたのですか?

  • 島田

    もともと大学では、3Dのコンピュータグラフィックスを専攻していました。その関係で映像系の仕事を志望していたのですが、そのころは初代プレイステーション(以下、PS)が発売されていたものの、日本の会社ではまだ3Dグラフィックスの仕事がほとんどありませんでした。そこで、最初は画像処理の専門性を活かしてキヤノンに入社しました。その後、大学の先輩のつながりでマイクロソフトに行くことになり、ゲーム業界との接点ができました。その当時の日本のゲーム業界は、任天堂とセガ、SCEの3社がハードウェアメーカーとして激しく競い合っていたころで、それを外側の立場から俯瞰して見ることができたことは、とてもキャリアにとってよかったです。

  • 松井

    そして、SCEに移られたわけですか?

  • 島田

    はい。そうやって俯瞰してゲーム業界を見つめる中で、「自分自身も直接ゲーム業界に関わりたい」と思うようになり、いろいろなご縁もあってSCEに入ることになりました。ちなみに当時、PS2のプロジェクトはSCE社内でもかなり極秘扱いになっていました。僕自身も入社したばかりのころはプロジェクトの中身をまったく知らされておらず、「ああ、何かやっているんだな」としか思っていませんでした。

  • 松井

    ゲーム業界での最初のキャリアはマイクロソフトとのことですが、島田さん個人としてはそれ以前にもゲームをプレイされていたのでしょうか。

  • 島田

    趣味としてのゲームは昔からある程度プレイしていましたが、本格的に興味を持ったのは、やはり大学で専攻していた3Dグラフィックスの技術が、ゲームにどんどん展開されていくのを見て、「こんなこともできるんだ」と感じたことがきっかけですね。アーケードゲームでは『バーチャファイター』(※)が大ヒットしていたころで、研究目的でもプレイしていました。やがてPlayStationやセガサターンが発売され、3Dグラフィックスのタイトルが、つぎつぎと家庭用ゲーム機で発売されていくのを、当事者に近いところで関われたのはとてもすばらしい経験でした。

    ※1993年にアーケードでリリースされた、世界初の3D対戦格闘ゲーム。

ネットワーク黎明期に出現したPS2

  • PS2が発売された2000年当時のインターネット界隈を振り返ると、Amazonが日本でのサービスを開始したほか、翌年にはYahoo! JAPANがADSLサービスに参入するなど、いわゆる“ブロードバンド”が一般に普及し始めた時期でした。PS2では来たるブロードバンド時代を見据えて計画されていたと思いますが、具体的にはいつごろからネットワークへの対応について準備されていたのでしょうか。

  • 島田

    ご存じの通り、発売当初のPS2の本体にはネットワーク機能が備わっていませんでした。しかしPS2発表会の際、すでに久夛良木さん(久夛良木健氏。当時のSCE代表取締役社長)がブロードバンドのことに言及していたように、発売の前後にはすでに社内体制も含めて「PS2でネットワーク対応をやっていくぞ」という流れはできあがっていました。そうしていろいろな部署に担当エンジニアが配属され、さまざまな企画チームが発足するといった流れの中に、自分も入っていった形ですね。

  • 松井

    その流れの中で、当時のSCE社内ではどのような議論が交わされていたのでしょうか。

  • 島田

    当時、モデムを内蔵した家庭用ゲーム機として、すでにドリームキャストがありました。しかし、PCゲームは別として、それ以外のゲーム機ではインターネット接続に対応したものがなかったと思います。その中で、「そもそもネットワークをどのように使えばよいのか」という部分に関してはよく議論されていました。もちろんネットワークを介した通信対戦は当然として、それ以外の部分での活用をどうすればいいのかについては、当時はまだ暗中模索気味でしたね。

  • 松井さんはその当時、PS2というハードをどのように見ていましたか?

  • 松井

    『FFXI』のチームが立ち上がったのが1999年でしたが、その時点でもう「PS2ではネットワークでゲームができるようになるはずだから、そのつもりで『FFXI』を開発するぞ」という話になっていました。“PS2がネットワークに対応する”という情報がそのときすでにオープンになっていたかどうかまでは覚えていないのですが、それより以前から、“プレイヤーふたりがひとつの画面の前に並んで、それぞれコントローラーを持っていっしょに遊ぶ”、という協力プレイからの正当な進化として、「ネットワークを介して離れた場所の人といっしょに遊べるようなったら、きっと楽しいだろうな」と思っていました。でも、いまではもうオンラインでのプレイはもとより、ソフトの購入などもネットワークを介してダウンロード販売で買うことが当たり前になってしまいましたよね。

  • 島田

    そうですね、当初は配信については漠然としたピクチャしかなかったですね。

※第12回パート2は2022年9月14日に公開予定

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