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-WE GREW VANA’DIEL-
“『FFXI』20年の軌跡”インタビュー 第3回
石井浩一 パート1

『ファイナルファンタジーXI』(以下、『FFXI』)の20周年を記念して5月8日にYouTubeで配信された特別番組『WE ARE VANA'DIEL』。番組内では“WE GREW VANA’DIEL”と題し、『FFXI』の開発に携わった方や、他社クリエイターも含めた関係者のさまざまな証言が映像等で公開された。しかし、それらは取材内容のほんの一部にすぎない。ここでは、関係者それぞれが語る“『FFXI』20年の軌跡”を、改めてインタビュー形式でお届けしていこう。

第3回は、『FFXI』の初代ディレクターとして、幻想世界“ヴァナ・ディール”に命を吹き込んだ石井浩一さんへのインタビューをお届け。そのパート1では、スクウェア(現・スクウェア・エニックス)入社以前のエピソードなどを語っていただいた。

『ファイナルファンタジーXI 20 周年記念放送 WE ARE VANA'DIEL』

※本稿では、IP(知的財産)としての『ファイナルファンタジー』と、1作目の『ファイナルファンタジー』の混同を避けるため、1作目については便宜的に『FFI』の呼称を使用いたします。

石井浩一

株式会社グレッゾ代表取締役。黎明期のスクウェアにおいて『FFI』を企画し、シリーズ第3作まで制作に関わる。その後は『聖剣伝説』シリーズをはじめとしたオリジナルの企画にシフトしていくが、『FFXI』でひさびさに『FF』シリーズに参加。本作の世界“ヴァナ・ディール”の基盤を創り上げるとともに、拡張データディスク『ジラートの幻影』まで初代ディレクターを担当した。

小学生のころからクリエイターだった

  • ふだんの作品にまつわるインタビューではなかなかお聞きできないことなのですが、石井さんにとっての“ゲームの原体験”とはどういったものだったのでしょうか?

  • 石井

    “ゲーム”というのはビデオゲームに限らず、ですよね? 自分にとってのゲームの原体験は、子どものころの“遊び”にまでさかのぼります。外で缶蹴りをしたり、土手や建設現場で遊んだり、誰かの家に集まってトランプやオセロをしたりといった、ファミコン登場以前の子どもの遊びがゲームの原体験です。ボードゲームもよく遊びましたよ。

  • いまではビデオゲームと対比して、アナログゲームなどと言われたりしますね。

  • 石井

    そういったもので友だちといっしょに遊ぶこと自体が楽しかった。その“空間”が自分にとってのゲームだったんです。

  • ひとり遊びではなく、他者と遊ぶことこそが“ゲーム”であったと。

  • 石井

    そうですね。そのとき誰と遊ぶかでゲームの展開は変わるし、“ゲームは生物(なまもの)”だと感じたのもそうした体験がベースになっています。いまと比べれば遊びの種類は少ないでしょうけど、カードゲームやボードゲームは当時のものでもよくできていたので楽しかった。

    ところが、そのうち飽きたり、どこか物足りなくなるんです(笑)。そんなとき、ルールをちょっと変えたり、何か工夫を凝らしたりすることで、ふと楽しさが増すことがある。思えば、そういう創意工夫や実践が自分のゲーム作りの原点なのかもしれませんね。

  • ゲームを遊ぶだけでなく、作ることの原体験でもあったわけですね。

  • 石井

    トランプをお手本にしつつ、数字と記号だけではないカードゲームを作ったりしました。ほかにも、『人生ゲーム』(※)のマスに書いてある文章をオリジナルのものに変えて冒険のゲームにしました。その際、駒もお菓子のオマケやキャラクターのミニチュアなどに差し替えて雰囲気を演出するんです。そうやって、ゲームやおもちゃを組み合わせて違うゲームを作るということをしていましたね。『億万長者ゲーム』(※)などの既存のゲームと、自分が作ったオリジナルのカードを組み合わせて、まったく違うゲームにしたこともありました。私の新しい遊びの提案を友だちはおもしろがってくれていました。実際に遊んでみて、物足りないところを探ったり、楽しそうにしていたならさらなるバージョンアップを画策したり(笑)。友だちの反応を見ながら検証し工夫して、どんどんおもしろくしていきました。

    ※『人生ゲーム』は、1968年にタカラ(現・タカラトミー)から発売されたボードゲーム。
    ※『億万長者ゲーム』は、1973年にタカラ(現・タカラトミー)から発売されたボードゲーム。
  • 遊びに対してずいぶん貪欲な友だちに囲まれていたのですね(笑)。

  • 石井

    自分はひとりっ子でカギっ子だったこともあって、友だちが家に集まることが多かったのです。ある意味、ゲームセンターに近かったのかもしれませんね。雨の日は外で遊べないので、必ず私の家に集まっていました。友だちが帰った後は、夜遅くに両親が帰ってくるまで、時間を忘れてゲームを作っていました。白い厚紙をカードサイズに切って、鉛筆で下書きをし、マジックで清書、サインペンで着色。こんな工程も、面倒ながら楽しかった。「こうしたらどうなるだろう?」と、友だちの反応をイメージしながら作業をするのが好きだった気がします。

  • いまのお仕事に通ずるものがありますね。当時、よく遊ばれたボードゲームはどのあたりだったのでしょうか?

  • 石井

    ボードゲームは、『人生ゲーム』が好きでした。『億万長者ゲーム』や『バンカース』(※)、『モノポリー』(※)は盤上がほぼ平面なんだけど、『人生ゲーム』は山や建物が立体で表現されていて、ジオラマのようになっているところがすごくよかったです。立体物がなくても空想で補完しながら遊ぶことはできるんだけど、イメージがより湧き上がりますよね。

    そういえば、折り畳みの将棋盤のマスに指示の紙を貼ったりして、自作のボードゲームを作ったりもしていましたね。運びやすさも考えていたような気はします。あと、飛び出す絵本のオリジナルボードゲームも作りましたね。折り込みかたを考えながら作るのが、パズルを解くような感じでした。空中に斜めに傾けたコースや浮いたコースを作り、マスに穴を開けて紙のコマを刺せるようにしたボードゲーム。畳めばキチンと1冊の本になるんですよ(笑)。

    ※『バンカース』は、1953年にハナヤマから発売された日本初のボードゲーム。
    ※『モノポリー』はアメリカで生まれたボードゲーム。日本版は1965年にハナヤマから発売された。
  • そうしたディテールの部分は、子どものころのほうが強く印象に残るのでしょうね。

  • 石井

    あと、“コリントゲーム”(※)も好きだったなぁ。既製品では物足りなかったので、木材屋から材料を調達してゼロから自作したんですよ。すごく長い板で作りました。「こうやって球を弾いたら、こうなりそう」というのをイメージしながら釘の位置を決めたり、おもちゃのピンボールから部品を取り外して移植したり。球も素材によって跳ねかたや感触、そして音も違うので、パチンコ玉にするのか、ビー玉にするのか、はたまたプラスチックのボールにするのか、といったことを考えるのも楽しかった。球を打つにしても、指で直接弾くのか、ゴムの反動を利用して木の棒で弾くのかでもプレイ感が変わるんです。自分の微妙な力加減が結果に反映されるのもおもしろい。そういった、五感で感じられるところが好きでしたね。

    ※“コリントゲーム”は、球転がしの盤製玩具。1933年~1935年ごろに大流行した。
  • 既製品では満足いかないのがすごいですね。

  • 石井

    ただ点数を取るだけのものではなく、ゲームルールも工夫をして、野球やサッカーのようなルールを取り入れていました。ほかとはできるだけ違うものにしたかったので、一生懸命アイデアを考えていましたね。もとのゲームのルールを参考にしつつ、出来上がるものに関しては必ずアレンジを加えないと気が済まない性格でした。

  • それは、もはやゲームデザインの領域ではないですか?

  • 石井

    遊び手の心理などもイメージしながら作っていましたし、こうしてふり返ってみると、やっていることは確かにゲームデザインですね。

  • そういったことは、いつごろからされていたのでしょうか?

  • 石井

    小学校3年生くらいからやっていた気がします。

  • そんなに小さなころから、アイデアマンだったのですね。

  • 石井

    そうですね。ひとりでいる時間は落書きをしたり、ゲームを作ったりしていたので、そういう妄想力や、イマジネーションの力はほかの人より豊かだったのかもしれません。学校でも、なぜか図工や音楽の先生におもしろがられていたんですよ。自分が描いた絵が校長室に飾られていたり、自分が作ったラッパ吹きの兵隊さんの人形が音楽室に飾られていたり。そういう子ども時代を送っていたので、人に評価される喜びというのもわかっていたのかもしれません。

  • 先生からも一目置かれていたと。

  • 石井

    小学校5年生のあるとき、担任の先生に呼び出されて、学校全体の新聞委員長を“やらされることになった”んです。これまではずっとひとりでモノを作っていたのですが、チームでのモノ作りというのもそこで経験できました。それもいい思い出ですね。

  • 「やらされることになった」とおっしゃいましたが、どのような経緯で新聞委員長になったのでしょうか?

  • 石井

    小学生の自分なんて、それはもうワガママだったし、傍若無人に振る舞っていましたから、担任の先生にしょっちゅう叱られていたんです。悪いことをして反省を促されても、廊下には立たず、体育館で遊んでいました。先生が自分を捜しに来て、「こら、石井!」と怒鳴るわけですけど、「先生、授業はいいの?」なんて言い返したり(苦笑)。もちろん、これは当時の話ですよ。

  • なかなかの悪ガキぶりですね(笑)。

  • 石井

    その先生は「石井はワガママすぎるからなんとかしないと」と思っていたのでしょうね。先生から「学校全体の新聞委員長をやってみろ」と言われ、面倒と思いつつも渋々やることにしました。その新聞委員の仕事は、学年ごとの新聞委員たちに身のまわりのネタを集めてもらい、私が構成を含めて1枚に書き上げたものをガリ版で印刷して、全校向けの“学校新聞”として毎月発行するというものでした。

  • 石井さんは委員長ですから、学校新聞の編集長のようなものですか。

  • 石井

    そうですね。掲載する記事の選定から校正、読みやすさを考えたレイアウトなどはもちろん、空いたスペースにキャラクターを描いたり、新聞のコンテンツとして4コママンガを描いたりもしました。あるとき、3年生くらいの見知らぬ男子に廊下で呼び止められ、 「石井さんですよね!? 新聞の4コママンガが好きで、いつも楽しく読んでいます!」と言われたんですよ。突然のことでちょっと唖然としましたけど、感想をもらえたのがすごくうれしかったのを覚えています。

  • 作家さんのようなエピソードですね(笑)。

  • 石井

    学校新聞は先生たちの中でも評判がよかったと、あとから間接的に聞きました。モノ作りをアピールできるのはいいな、反応がもらえるのはいいな、と気づかせてくれたありがたい経験です。ちょっと反目していた担任の先生も新聞を褒めてくれて、先生には感謝するようになっていましたね。そのような経験から、知らない人からよろこんでもらえるモノ作りをしたいという気持ちが強くなっていったように思います。

  • こんな体験をしてしまったら、将来の目標が一気に定まってしまいますよね。

  • 石井

    小学校で経験したことは財産としてとても大きいです。絵も小学校のころから描いていて、マンガ家になりたいと思っていた時期もありましたけど、鳥山明先生(※)が現れて「マンガはもういいや」とその道はあきらめました。

    ※1978年に週刊少年ジャンプ(集英社)でデビューしたマンガ家。代表作は『Dr.スランプ』、『ドラゴンボール』。
  • それほど強烈だったのですか?

  • 石井

    自分の目指していた世界観や絵のタッチ、方向性がそこにあったんです。『ワンダー・アイランド』という鳥山先生のデビュー作を見たときに「これは……!」と思ったのですが、『Dr.スランプ』の連載が始まったときに「やっぱり、この人はすごいな」と確信するわけです。鳥山先生の絵を見るたびにすごさを感じて、自分はこの領域には到達できないと悟りました。それを機に絵は描かなくなり、絵の成長はそこで止まっちゃいましたね。

ビデオゲームで何を表現するか

  • そうした中で、いよいよビデオゲームが登場するわけですよね。

  • 石井

    当初はゲームセンターのようなものはなく、デパートの屋上やボーリング場などにアーケードゲームの筐体が置かれていたと思うのですが、そのへんはだいたい遊んでいましたね。『スペースインベーダー』(※)も両親が営んでいたお店に置いてあったので、しょっちゅう遊んでいました。楽しかったけれど、この時点ではまだこういうものを作りたいという気持ちにはなっていなかったと思います。『パックマン』(※)や『平安京エイリアン』(※)でも少し興味を引かれましたが、そこに自分が求めている表現ができるイメージはありませんでした。初めてビデオゲームを作ってみたいという気持ちが湧いてきたのは、『ドンキーコング』(※)を見たときだったかな。

    ※『スペースインベーダー』は、1978年にタイトーから発売され、大流行したシューティングゲーム。
    ※『パックマン』は、1980年にナムコ(現・バンダイナムコエンターテインメント)から発売されたアーケードゲーム。
    ※『平安京エイリアン』は、1979年に東大生が開発したゲームで、1980年に電気音響からアーケード版がリリースされた。
    ※『ドンキーコング』は、1981年に任天堂から発売されたアーケードゲーム。ちなみにプレイヤーキャラクターが“マリオ”と呼ばれるようになったのは、1982年に発売された続編『ドンキーコングJR.』から。
  • 『ドンキーコング』のどのあたりに可能性を感じたのですか?

  • 石井

    『ドンキーコング』は2Dのゲームなのですが、マリオがハシゴを登りきるときにお尻をプレイヤー側に向けますよね。あのときに、“奥行き”を感じたんです。「キャラクターのポーズ次第で、ゲーム内に空間を表現できるんだ」と気づきました。だから、マリオのお尻は好きでしたね。ハシゴを登り切る瞬間の、お尻が“プリッ”となるドット絵は最高です。

  • 平面の画面から“空間”を感じたと。

  • 石井

    「ゲームは“世界”を表現できるんだ」とわかったとき、ゲームもちょっと作ってみたいなと考えるようになりました。『ドンキーコング』は、タルの跳ねかたや“ドンドン”という低音、キャラクターの足がちゃんと地面に付いている感じがよかったし、その感覚が味わえた。自分が小さいときに遊んでいたボードゲームやコリントボール、ああいった遊びで自分が表現したかったもの、そのための手法や道具がビデオゲームなら表現できるなと感じました。

  • ビデオゲームでボードゲームやコリントボールを作る、というのとはまた違うわけですね。

  • 石井

    違いますね。自分は、遊んでいる人を世界の中に入り込ませたい、感触を味わわせたい、というのをやりたかったんだと思います。それには効果音やリアクションが大事で、そういう部分にこだわっていないゲームはキャラクターが薄かったし、世界に存在している感じがしなくて、ゲーム自体はおもしろくても「何か違うな」と感じていました。

  • なるほど。石井さんにとってのゲーム(遊び)とは、“体験”や“感触”がともなうことが重要であると。

  • 石井

    そのころから、自分だったらどういうものを作りたいのか、自分だったらこうする、というのをビデオゲームに対しても考え始めるようになりました。ゲーム画面をイメージできるようなものをノートに落書きしていたのですが、小学校のころから描いていた“ちびキャラ”がそこで活かされたりもしました。

運命を分けた定期券

  • そのままビデオゲームの開発を仕事にしようと決めたのですか?

  • 石井

    いえ、そうはならないんです。正直、そのころはビデオゲーム自体が社会から認められるようなものではなかったように思います。実際、スクウェア(当時)に入った後も「ちゃんとした会社を紹介するよ」なんて親戚にも言われましたし、生涯やっていける仕事というイメージはなかったですね。ですから、あくまで個人的にビデオゲームの企画を考えたり、脳内でそれを思い描いたりする趣味のようなものでした。それでも十分楽しかったですけどね。

  • ということは、最初はまったく別の仕事を選ばれたと。

  • 石井

    ええ。大学生時代は、夕方から銀座の会員制クラブで黒服(※)のアルバイトをしていました。

    ※ナイトクラブなどで働く男性スタッフの別称。
  • これはまた、ぜんぜん違う世界ですね。

  • 石井

    大学を卒業していざ就職となると、友人たちは少しでも名の知れた会社に入ることを考える。しかし自分は、会社とは自身のやり甲斐を実践できる場所であるかが大事だと強く思っていました。そのためには、見極める目を鍛えることが必要だと感じていました。また、会社はトップの人間で決まるものだと思っていたので、成功された方々を間近で拝見してみたかったのかもしれませんね。

  • なるほど。でも、夜の銀座に飛び込むとは発想がおもしろい。

  • 石井

    社会人の中でもトップの人たちが集まる場所ってどこだろう? と考えて行き着いたのが、会員制の高級クラブ、そして銀座でした。会員制のクラブというのは、接客業の中でもトップクラスのきびしさだろうと判断しました。たとえアルバイトであっても、店の一員として高いプロ意識を求められるし、失敗すれば店が恥をかく。ワガママな自分が社会に適応するには、プロ中のプロのところに飛び込まなければダメだという自覚があったのかもしれません(笑)。

  • 銀座で人間を磨いたわけですね(笑)。

  • 石井

    わがままな性格は矯正できませんでしたけど……(笑)、さまざまなトップの方々に接せられたのは本当にいい経験でした。お客様は成功された方々ばかりでしたけど、実際に接してみると“人間力”みたいなものはピンキリでしたね。人の上に立つ者の言葉遣いや振る舞いを間近で見られて、貴重な社会勉強になったと思います。チームワークのスムーズさや店内の状況認識、お客様の感情を先読みするスキルなども勉強になりましたし、その評価として、ママさんやマネージャにもあてにされていたのはうれしかったです。働き始めてから1年ぐらい経つと、店の鍵を渡されたりしてね。「早めに入れる日は店の準備をしておいてよ」と(笑)。

  • とても順調で充実しているように思えますが、そこからなぜゲーム業界に入ることになったのでしょうか?

  • 石井

    黒服の仕事は2年弱くらい続けていて、いずれ店舗を任せられるように成長してほしいと期待されていましたが、夜の仕事は体がだんだんきつくなってきました。社会勉強にはなるけれど、身体的にも精神的にも消耗が激しい。それで、デスクワークに職を変えたいと考え始めました。ちょうどビデオゲームも流行ってきていたし、アルバイトでもいいからゲーム作りができそうなところということで、ナムコ(当時。現バンダイナムコエンターテインメント)とスクウェア(当時)を受けました。

  • ついにスクウェアの名前が! 2社の面接の結果はいかがだったのでしょうか?

  • 石井

    スクウェアもナムコも大丈夫そうでしたが、ナムコは新社屋に開発部隊が移ると聞いて家から遠くなりそうだったので、縁はないかなと判断しました。スクウェアを選んだのは東銀座で縁を感じていましたし、銀座までの定期券がまだ半月分残っていたのもあります(笑)。スクウェアの面接では、ゲームの流れをマンガにした企画書を3つ持っていきました。坂口さんが私の企画書に書かれていたキャラクターを気に入ってくれたのは覚えています。面接の終わりに、「来週の月曜日に机を用意しておくから」と坂口さんから言われました。思い返せば、あそこからが私のビデオゲーム開発人生のスタートでしたね。

  • ※石井さんがスクウェアに入社して『FFI』が生まれるまでのエピソードはこちらで。
    -WE DISCUSS VANA’DIEL- 特別対談 石井浩一×天野喜孝 <前編>

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