『ファイナルファンタジーXI』(以下、『FFXI』)の20周年を記念して2022年5月8日にYouTubeで配信された特別番組『WE ARE VANA'DIEL』。番組内では“WE GREW VANA’DIEL”と題し、『FFXI』の開発に携わった方や、他社クリエイターも含めた関係者のさまざまな証言が映像等で公開された。しかし、それらは取材内容のほんの一部にすぎない。ここでは、関係者それぞれが語る“『FFXI』20年の軌跡”を、改めてインタビュー形式でお届けしていこう。
その第5回は、『FFXI』の初代アートディレクターとして背景デザインやモンスターデザインなどを手掛けてきた相場良祐さん。“サブリガ”の生みの親としても知られる相場さんは、どのように『FFXI』の開発に携わり、その世界を描いていったのだろうか。まずパート1では、相場さんが当時のスクウェアに入社した前後のお話をうかがった。
『ファイナルファンタジーXI 20 周年記念放送 WE ARE VANA'DIEL』
1997年にスクウェア(当時)に入社し、『ゼノギアス』、『クロノ・クロス』などの2D、3Dアーティストとして活躍。その後、『FFXI』では初代アートディレクターのほか、背景デザインやモンスターデザイン、キャラクターテクスチャーデザインなどを手掛ける。スクウェア・エニックス退社後は、2012年に皆葉英夫氏らとともに株式会社CyDesignation(サイデザイネイション)を設立し、取締役に就任。サイゲームスの『神撃のバハムート』、『Project Awakening』などの開発に携わる。
自作ゲームのドット絵制作がクリエイティブの原点
まずは、相場さんにとってのビデオゲームの原体験からお聞かせください。
- 相場
まだファミコンが発売されていなかったころからゲームやコンピュータが大好きで、ゲームセンターにあったアーケードゲームやパソコンショップのデモ機は、べつに自分がプレイしていなくてもいつまでも眺めていられました。そしてファミコンが発売されるとゲームを取り巻く環境は一変するのですが、自分はファミコンを買ってもらえなかったんですよ。それが悔しくて、家にある父親のパソコンを使い、自分でプログラムしてゲームを作り始めました。
なんと、プログラムをされていたのですね。相場さんは結果的にアートの道を選ぶことになるわけですが、プログラマーを目指すという選択肢はなかったのですか?
- 相場
じつはそのころは、絵の仕事に対してそれほど興味があったわけではないのです。ですが、自作のゲームをプログラムしていたときは、自分でドットを打っていましたね。いま思い出してみても、けっこういいデキだったような気がします(笑)。
やはり、センスはあったのですね。ちなみに、どのようなゲームを作られていたのですか?
- 相場
いろいろなゲームを作っていましたが、中でも『スーパーマリオブラザーズ』(※)がプレイしたくてしかたがなかったので、似たゲームを作りました。ただ、当時のパソコンは処理能力がそれほど高くなく、ファミコンほどのスピードが出せないんですよ。ですから、一度作った後はアクションゲームをあきらめて、RPGを熱心に作っていました。
※1985年に任天堂がファミリーコンピュータ向けに発売した、横スクロール型の名作アクションゲーム。 プログラムはどのようにして学ばれたのですか?
- 相場
生まれ育ったのは田舎でしたから、プログラムなどというものを身近で教えてくれる人はおらず、毎月発売されるパソコン雑誌が頼りでした。
熱心にプログラムに打ち込まれていたように見受けられますが、それを仕事にしようとは思わなかったわけですよね。
- 相場
大学に入るまで、自分の将来について真面目に考えることはなかったです。何となく、大学に入った後はふらふら留年していました。そんなとき、深夜のコンビニでスクウェア(当時)のグラフィック関連の求人広告を見かけて、「これだ!」と。
これまでの“WE ARE VANA’DIEL”のインタビューで、松井プロデューサーや北瀬佳範さん(『FF』シリーズブランドマネージャー)も、「ふらふらしているときにスクウェアの求人広告を見かけて応募した」といったことを話されていました(笑)。ちなみに、なぜスクウェア、しかもグラフィック関連の求人を見て応募しようと思われたのでしょうか?
- 相場
当時、知り合いに絵を教えてもらう機会があって、それをきっかけに「僕も絵を描いていきたい」と思い始めていました。そんなこともあり、スクウェアからの求人は打って付けだと思ったのでしょうね。
入社されたのはいつごろでしたか?
- 相場
1997年だったと思います。最初はアルバイトとして入ったのですが、『ファイナルファンタジータクティクス』を社割で買えてうれしかった記憶があります(笑)。
『ゼノギアス』のグラフィックを見て心から感動した
スクウェアに入り、最初はどのような仕事を担当されたのでしょうか?
- 相場
『ゼノギアス』で背景デザインの仕事を担当しました。自分がチームに入ったときにはすでに開発がスタートしていたのですが、顔合わせの日に、最初の村である“ラハン村”のアートと、実機上で動いている“ラハン村”を見せてもらって、心から感動したのを覚えています。すべてがドット単位で完璧にコントロールされたアートで、「本当にこれが動くの?」と疑うほどでした。実際に動いている様子を見て、こんなにすばらしいゲームグラフィックスは見たことがないと思いましたね。そのクオリティもさることながら、“この世界にあるすべてのドットをコントロールする”というアートスタイルにも感動しましたし、これからこの世界を自分の手で作れるんだということにも感激しました。
その体験が、相場さんのゲーム開発における基盤となったのですね。
- 相場
そうですね。いまでもあの感動は忘れられません。
『ゼノギアス』のつぎは、どの作品に関わられたのでしょうか?
- 相場
『クロノ・クロス』です。確か、このときにアルバイトから正社員になったと思うのですが、仕事の内容はそれほど変わりませんでした。最終的にはモンスターまわりの企画とデザイン、監修、3D制作などを担当しました。自分としては、最初に感動した“ラハン村”のことがあったので、「スクウェアの花形は背景グラフィックだ」と思っていましたし、自分がその背景グラフィックチームの一員であることに誇りを持っていたのですが、『クロノ・クロス』ではモンスターを担当することになって、最初はガッカリしながらモンスターの絵を描いていた記憶があります(苦笑)。
そうした印象は、開発が進むにつれて変化していったのでしょうか?
- 相場
そこは“住めば都”という感じです。『クロノ・クロス』はチームが小さかったので、モンスターの担当は僕ひとりしかおらず、自分でモンスターの絵を描いて、自分で3Dモデルも作るという状況でした。そんな中で、自分が描いたモンスターが動くのを見るのは楽しいなと思いながら仕事をしていましたね。
そして『クロノ・クロス』の後に、『FFXI』チームに配属されるわけですね。ということは、『ゼノギアス』からずっと田中さん(田中弘道氏。『FFXI』の初代プロデューサー)のチームに所属されていたことになりますが、田中さんの印象はいかがですか?
- 相場
田中さんはやさしかったですね。あと、とても物知りでした。自分の仕事には、“手は動かしているけれど、脳みそはヒマ”というような単純作業をしている時間があり、仕事とはぜんぜん関係ないことを考えていたりします。あるとき、ふと「万有引力で物が引き合うなら、なぜ宇宙は縮んでいないのだろう?」と疑問に思ったことがありました。1日中そのことを考えていて、それがどうしても気になってしまい、田中さんに聞きに行きました。田中さんは、「引力は距離に応じて減衰するんだよ」とさらっと答えてくれました。ほかにも「裸で宇宙空間に出ても真空断熱で寒くない」とか「電線の中を電子は流れない」とか仕事中に思いついた事を田中さんに報告していました。
田中さんらしいエピソードですね(笑)。
※パート2は11月16日公開予定